立教・立花隆ゼミ「現代史の中の自分史」blog

2010 年 1 月 13 日

「ザ・ヒロ子」目次

カテゴリー: ザ・ヒロ子 — 2nd_house @ 11:10 AM

目次

1 はじめに

2 母ちゃん

3 私を変えた恩師

4 母との確執

 チビダンプ

 兄の忘れられない言葉

7 母について

8 高校最後の思い出

「芸術家」めざして!

10 私の普通は世の異常

11 大金持ちの大家さん

12「深野ケンジ」くん、まずは“友達”から

13「駆け落ち」のち「家出」

14「はじめてのアルバイト」

15 パンダとパトカー

16 いつもと違う“食中毒” 

17“できちゃった婚”で母になる 

18 ケンちゃんの後継ぎ・“嫁”の頑張り 

19 ケンちゃんが消えた 

20 一人になって 

21 親孝行はできたけど

22 マコの叫び 

23 ケンちゃんのいない「深野家」で 

24 一冊の本と別れ 

25 22歳の別れ 

26「深野」の立場と私達 

27 神様の粋な問いかけ 

28 息子 

29 怖くて聞けないこと 

30 そして今私は 

31 あとがき 

32 遅くなった挨拶とお礼

 

 

「ザ・ヒロ子」32  あん子(著)

カテゴリー: ザ・ヒロ子 — 2nd_house @ 11:09 AM

「遅くなった挨拶とお礼」

 

 人は誰でも一冊の本が書ける。生きた軌跡を書く「自分史」である。何かの本に書いてあった。

私は50歳くらいの時から、それまでの自分を振り返り生きた時間の分だけ積み上げられたさまざまな出来事やその時々の思いを整理したい、いつか自分史を書きたい、そう思っていた。

2008年4月立教セカンドステージ大学に入学、履修届のカリキュラムに「現代史の中の自分史」を見つけ私は真っ先に選んだ。

受講生は50名くらい。私が立花隆先生が有名なジャーナリストであることを知ったのは授業を受けしばらくしてからのことだった。

ゼミ生との飲み会に参加した帰り道、池袋東口商店街の横断歩道を並んで歩く立花先生に私は聞いた。

「先生は本が好きですか?これまでに一番すばらしいと思った一冊の本は何ですか?」

「本は好きだよ!沢山あって一冊だけ選ぶことはできないな〜」といつものやさしい目と微笑みでバカな私の質問に真夏の短パン姿の先生はきちんと答えてくれた。

あとで膨大な著書のある有名な先生と知らされクラスメートのみんなに「誰になんてことを聞いたの?」とあきれられた。

 

 日本経済新聞の『私の履歴書』を参考にして書きなさい・・「自分史」の授業が始まった。まずは生まれてから小学校に入学するまでを書き始めた。

私の心のステージに幼い頃の自分が現れる。

そう、もう50年以上も前の私に引き戻される心で書き始めた。

驚いた。私は記憶は歳と共に薄れてゆくもの、ましてやその時の感情や心の動きなど消え失せているものと思っていた。驚いた。

思い返すひとつひとつの出来事にその時の感情がそのままにくっついていて、あたかも「その時」に私が居るかのように記憶の消えてはいない私の心を観た。

驚いた。

小学生の私を書く時は小学生の私が感じた心を書き、高校生の私は高校生の私が感じた心を書いた。まるで自分が歩いた人生の道をもう一度生き始めるかのように・・。

3回目の授業の時だった。

先生が自分史の年表作りを課題に出した。自分がどういう時代に生まれ、時代の何に影響を受けてきたのか、記憶を引き出し客観的にいろいろな事が見えて来る自分だけの年表を書きなさいと。

そうか、この授業は「現代史の中の自分史」なのだ。

みんなすごい年表を書いてきた。自分が生まれた時の世界の出来事・日本の出来事・家庭の出来事・影響をうけた人の年表などなど世界、いや宇宙的な観点から見る自分そして自分の人生・・なるほど、そういう目で自分を、自分の人生を確認するのか、そうやって書くものなのか・・これぞ「現代史の中の自分史」、そう教えられた。

が、私は年表が書けなかった。

なぜだか私は昔から年表とか全く苦手で・・書こうとはしたが書けずにいた。年表を書かないと次へは行けないと思い、結局授業は受けていたが毎週火曜日までに提出しなくてはならない原稿を私は出さなく、いや出せなくなった。

「落ちこぼれの梓木で〜す!」私は書けない自分をうそぶいた。

ある日の授業の終わり、他の生徒の作った年表を“どうしてこんな年表が作れるのだろう”とため息まじりに私は見ていた。

教壇の上で資料の後片付けをする立花先生に思い切って私は聞いた

「先生!年表どうしても書けないのですが、書かなくちゃだめですか?」

「書けなきゃいいんだよ。君の書けることを書きたいように書けばいいんだよ!」先生はそう答えて下さった。

年表書かなくても続きを書いていいんだ。やった〜!私は再び書き始めた。

どんどん自分を書いた。“爆発”した!

日本経済新聞を参考にとか、年表を作り客観的に自分を見るとか、そんなこと何もかも忘れ私を書いた。私の心を夢中で書いた。

シラバスには『個人的なことを書くので他人に見られたくないと思う人は履修しないで下さい』とあるがそんなこともおかいまいなしだ。

今書かなければ2度と書けなくなくなる。こんなチャンスはない。

私はそう思い自分を書いた。鮮明に残るその時々の自分の心を書いた。

私の人生すごいでしょ!私頑張ったでしょ!まるでそうとでも言いたげな虚栄心の固まりの人間と思われるかも知れない。

けれど私は自分に向かって私の心をそのままに書いただけであり、整理できずにいた私の心を書いただけであり、自分の心を書き留めておきたいと思っただけだ。

自分史を書くために授業を受けたが、私は“授業の提出物”としては書かなかった。

書くなら本気で書きたい、何もかもを心のままに書きたいと思ったのだ。

 

7月中旬、授業終了。出来ていない人は夏休み明けに提出のこと。

なまけものの私は授業が終わるとまた書かなくなった。夏休みが明け、9月が過ぎても提出はしなかった。

何回かの催促はあったが、それでも出さず、ある日のこと、とうとう未提出者が私1人だけとなり『出来ている分だけで良いので11月12日午後2時までに必ず提出して下さい』という最後通告がきた。

大変だ!!何とか書きためていたものを整理し、目次をつけ、後書き、前書き、今の自分にやっと繋げ11月12日午後3時提出した。

自分が怠惰なだけの理由なのに、まだまだ書ききれてはいない未完の自分史が情けなかった。

立花先生や多くの方達にこれだけ迷惑をかけながら、やっと提出した私なのに、バカな私は提出の時こんなコメントをつけた。

「未完のままですが提出いたします。きちんとまとめ完成した自分史が出来ましたら再度読んで下さいますか?」

期限後4ヶ月もの長い間提出もせず迷惑をかけた私に、こんな返事が返ってきた。

「完成品、いつまでもお待ちします。」と。

あの最後通告がなければ、4ヶ月も遅れて提出する私を受け入れて下さる懐深い大きな心がなければ私の自分史は今もなお途中のままに終わっていたことだろう。ただただ感謝の思いでいっぱいだ。今もなお、その時以上に。

 

 授業に携わったある人からブログに載せてみてはと話をいただいたのは昨年4月のことだった。

まだまだ仕事の中の私、亡くした親友のこと、死んだもう一人の兄のこと、息子達のこと、昔裕福だった梓木家の没落のこと、書きたい事がいっぱいあった。

けれど授業もなく提出期限もないことで心入れて書くこともなく、ただ思いだけが“もっと書きたい”・・そう思うだけだった。

 

 「自分史」をブログに?自分史を他人に読んでもらう?

それはどういうことか・・。「自分史」とは何か・・。

私が私のために書いた自分史、他人に読んでもらうことを意識して書いたものではない私の自分史。

にもかかわらず、なぜ私は自分史をブログに載せるのか。私の人生を。

考えていた・・。

 

 月日はどんどん過ぎ去り2009年12月。

私の心が動いた。

もうすぐ卒業。やらないで後悔するよりやって後悔しよう!

なぜそうするのか、したいのか、わからなきゃわからないままでいい。

 

 全く文章など書いた事のない日記のような私の自分史を他人が読んでくれるのだろうか。読むに耐えうる文章、内容なのか。生きてきた途中での出来事と私の心を書いただけの自分史が。

けれどとにかくやってみよう。やってみたい。

中傷、誹謗、笑われる事をも覚悟しよう。

 

 2009年12月13日、自分史に書いた方々に断りもせず、読んで下さる方への始まりの挨拶もせず、私の自分史「ザ・ヒロ子」がブログデビューした。

大勢多数の1人の人生など他人にはどうでも良いこと、文章のきまりも何も知らない拙い文章、秩序なく混沌と書いた私の自分史。

不安だった・・。

けれどそんな不安をよそに私の自分史を読んで下さる方がいた。

私の自分史につきあって下さり、書ききれていないもどかしい拙い文章から私の思いを深く読みとって下さる読者がいた。

たくさんの方から真面目な誠実なコメント、手紙、メールが届いた。

ありがとうございます。心全部で私はそう思った。

読者の方は読み続けて下さり、その時々の感想まで下さった。

うれしかった。読者からのそれぞれの思いを深く受け取った。

心から感謝した。

 

 年が明け2010年1月5日、最後の章(30章)がブログに載った。

書いた私は、これが最後の章、いつになく1人の読者のような思いで読んだ。

うまくは言えない。が、ある寂しさが心をよぎる気がした。

「ああ、これでこの章で私の人生が、心にしまってきた私の人生が私から離れていく・・」何かが終わったけだるさのような心が、よぎった気がした。

 

・・・そのあとだ。私の中から何かしら突き上げてきた。

書きたい!もっともっと書きたい!サイダーの小さな泡つぶのように現れては消え、消えては現れるこの私の心を書きたい!

書く事が自分へのカタルシス、書く事の意味、書くことの大切さ。

そうだったのか・・。

ブログを進めて下さった方の思いに、この時初めて私は気づかされたように思った。

その方の思いはきっとブログをきっかけにして自分を追い込み、とにかく書きなさい、そう私に言いたかったのではないだろうか。

書いて書いて書き続けなさい。誰のためでもないあなた自身のために・・そう私に教えたかったのではないだろうかと。

やっと今私は、本気で自分史を書こうと思うところに来れたように思う。

書いて書いて心を書いて「梓木ヒロ子」という大勢多数の1人の女を、人間を、「ザ・ヒロ子」を死ぬまで書いていこう。生ききろう。

今、私は心からそう思う。

自分史・・Making of myself・・。

 

読者の皆様へ

 私は今、在学しているセカンドステージ大学の卒業間近となり修了論文の完成めざして頑張っています。そのため「ザ・ヒロ子」の続きは少しの間お休みさせていただき2月からまた再開したいと思っています。

 この1ヶ月間、最後まで拙い私の自分史につきあい読んで下さった読者の皆様、そしてたくさんのコメント、手紙、メールを下さった「かっちゃん」「カンコさん」「小吉くん」「札幌のよっちゃん」「惠子さん」「芳枝さん」「阿美さん」「篤姫さん」「ときこさん」「京子さん」「めえさん」「舞さん」「イチカワさん」「道子さん」「小オニさん」「ジャンボなシバタさん」「松っつあん」「悦ちゃん」「ますみちゃん」「のっちゃん」、セカンドステージ大学クラスメートの皆様、セカンドステージ大学本科修了生の皆様、セカンドステージ事務の皆様、ブログに載せて下さった立花事務所の皆様、作業をして下さったSマネージャー、私を心から応援して下さる皆様、みんなみんな本当に本当にありがとうございます。

2月再開の次回からもまたおつきあい下さるよう、読んで下さるようよろしくお願いいたします。

 

                         2010年1月11日

                          立教セカンドステージ大学専攻科 あん子

 

2010 年 1 月 8 日

「ザ・ヒロ子」31  あん子(著)

カテゴリー: ザ・ヒロ子 — 2nd_house @ 11:50 AM

あとがき

ギリシア語では時間の概念をクロノスとカイロスに区別する。

河の流れのように過ぎ去っていく日常的な時間がクロノス、二度と来ない決定的な瞬間がカイロス。

私が生きたと言えるのは結婚、出産、離婚、いわゆる人生の“大イベント”を終えてから、つまり25歳からの一人で歩き始めた時が私の人生の出発点のように思う。

30代は“大人の十代”という歌詞がある。59歳の私は“大人の30代”の終わり。

孟子曰く、「30にして立つ」・・・私は、やっと立ったのだ。

振り返れば、実にクロノス的に事を起こし、それらの事後にカイロスを、「決定的な瞬間」を巻き戻すかのように、なぞるように、自分のしてきた様々な事への責任とその意味に私は生きてきたように思う。

「自分史」、今ある私と言う人間を作ってくれた歴史・・・結婚をし離婚をしシングルマザーを生きて来たというどこにでもある話。

けれど大切な大切なこれまでの私の歴史。

私はとにかく生きてきた。私という人間を生きてきた。

昨年3月、30年勤めた北海道の小さな町役場を早期退職、学ぶ生活をめざして、一人上京した。

生きるエネルギーを自分だけに使いたい!消耗したい!今が“その時”と、それまでの全てを捨てて私は東京に自分を移動させた。

思えば私という歴史の原点を作った東京・・挑戦となるか、危機となるか。

失うものはあるけれど、生きる事に不必要な諸々から開放され、その分の大きなエネルギーを、学ぶことに、知ることに、見ることに、自分だけに使いたいと思った。

安定した日常は安心だが、倦怠と怠惰を心に生む。

保身のための仮面を捨て、失敗しないようにと身構える事もやめ、自分を何もない何も見えないまっさらな所に置き、歩かせてみたい。

これまでの全てが私の意志で起こした事実に違いなく、自ら作った事実の「山」を登り越えてきたような私だが、59歳になりやっと人間として一人立ちした自分を新しい場所で見知らぬ場所で歩かせてみたくなったのだ。

生かせてみたいと思ったのだ。

何ができるのか、何をするのか、どう生きてゆくのかを私自身が見たいと思った。

自分が何を大切に生きたのか生きようとした人間なのかを見たかった。

私の人生の最後に。

何というわがままな贅沢な人生をいただいたことだろう。

得難い試みの時を、挑戦の時をいただいたことだろう。

そう思いながら今私は生きている。

生きる中で学んできた、ひとりぼっちという人間の深淵をたたき込まれた自分を信じて私は前へ進む。前へと歩く。

誰でもない、私という一人の人間として生き始める出発点に立ったのだから。

人は私の人生を挫折の人生と言うかも知れぬ。たとえそうであっても、これまでの私の人生に悔いはない。私は生きて来た。

だからこそ今こうしてホンモノの“自由”をいただけたと私は思う。

何かしら大きなるモノに向かって私は深々と感謝の思いいっぱいにお礼が言いたい。

私達親子3人が無事生きて来られたことを、ここまで生きさせてもらえたことを。

そして新しい自由を獲得した私の幸運な人生に。

これまでに出会った全ての人々、全ての私達親子を見守り育てて下さった人達、ありがとうございます!本当に有難とうございました!

一枚の写真がある。

駆け落ち、結婚そして長男誠を出産、母となった21歳の私がいる。

ケンちゃんとマコと私の母と川湯温泉(北海道)に行った時の一枚の写真。(昭和46年夏)

自分が人生の何処で何をしているのか、そんなこと考える事すら知らずに、温泉の温かい砂にただ無心で遊んでいる。

赤いTシャツ、ミニスカート、クリーム色のハイソックス、21歳の若い母は少し微笑み・・それからを一人生きてゆくことになることも知らずに。

色あせた写真の中の私がまぶしく、何も知らないあどけない私がまぶしく・・。

頑張って良かったね・・生きて生きてここまで来れて良かったね・・と私が

私を抱きしめる。

「梓木ヒロ子」という一人の女の人生の始まりの写真。

写真の中の私に38年の歳月が通り過ぎ、もうすぐ60歳!

再び生まれた時の干支に還るという「還暦」の歳。

60歳の人生の漂流者、梓木ヒロ子さん!

これからどちらへ?

2010 年 1 月 5 日

「ザ・ヒロ子」30  あん子(著)

カテゴリー: ザ・ヒロ子 — 2nd_house @ 9:10 AM

そして今私は

 

 

「立教セカンドステージ大学の志願理由」 

 

                             梓木 ヒロ子

 

 やがてくるだろう「死」の時に、私は言い訳をしたくなかったー自分自身に。

やりたい事を実現し、なりたい自分になりたいと思ったから。

 私は、30年間勤めた北海道の小さな町役場を早期退職し上京した。

定年まであとわずか3年という、昨年(2007年)4月7日の事である。

 

自らの意志で自分の“逃げ道”を閉ざし、あともどりする場所もない、全てがまっさらで、全てが不安定な中に自分を置き、この東京の街で一人何を見、何を思い、どのように生きてゆくのかを見たいと思ったのだ。

 

 私のこの選択が、ただの向こう見ずな自分への賭けなのか、それとも・・・。

とにかく、私は行動した。

頼りは自分の“夢”と“ヤル気”ーそれだけだった。

 

 上京してすぐにW大学・J大学の開放講座の受講を開始した。

私の夢だった学ぶ生活の始まりである。

40年前、この同じ東京で学生だった自分には感じることのなかったまぶしい程に輝いて見える大学という建物、教室、机、イス、構内のあちらこちらに貼られている伝言板の中のチラシ、それら全てのものがピカピカ光って私には見えた。

まるで日常の俗なる世界から隔離されているかのような、みんなが「学び」に向かいながら、すがすがしく美しく生きている何かを、この今の年齢だからこそ感じられるような何かを心いっぱいにしながら学ぶ自分・・何と楽しい時間の中に私はいるのだろう、いられるのだろうーそう神様に心から感謝しながら新しい場所で今私は生きている。

 

 これまでの人生に悔はない。いろいろな事があったが一生懸命生きてきた。

普通なら、これから結婚という年齢の25歳で離婚、二人の息子と共に33年が過ぎた。

その二人の息子達も今、36歳と33歳になりそれぞれ自ら選んだ道を歩いている。

幸か不幸か、夫もいなく、両親も亡くし、一人で生きてきた私にしかできない、今しかできない選択、それが東京で学ぶ生活をする事だった。

何と贅沢な人生を歩かせていただいているのだろう。

この選択を了解してくれた二人の息子達に心から感謝する。

私をこれまで育てて下さった、支えて下さった、沢山の出会った愛する人達、そして30年間働かせて下さった職場、仕事に心から感謝する。

だからこそ私は本気で自分の全てを賭け、今を、これからを、心から大切に生きようと決心している。

 これまで、一人生きてきた自分を信じ、前向きに、自分の中に眠っている未だ見ぬ能力にチャレンジしたいと思う。

 

 人生後半になると、誰もが“守り”に入り静かに歩き終えようとすることが多いけれど、私は人生後半だからこそ何かをなそうとする意欲、攻めの姿勢が大切に思えるのだ。

親としての役目を終えた今だからこそ一人の人間としてのこれからを問われるのだと思うーどう生きたいのかを。いかに生きて行くのかを。いかに死んでゆくのかを。

 

 これまでも、充分すばらしい人生だった。

けれど私は、もっともっと自分の好奇心に忠実に自分がしたいと思うことを楽しみながら、自分とは何か、生きるとは何かを問い続け観察してゆく人生をめざしたい。

 

 先日、私は「熟年メッセージ」という大会に参加し、さまざまな「セカンドステージ」を生きている人達のメッセージを聞いた。

それぞれの方が、自分の生き方を実践してのすばらしいメッセージだったが、うまくは言えないが、「個」として存在する人間の基本をごまかそうとしているような、群れを組み楽しく老後を生きて行きましょうよー何でもかんでもボランティア活動と称して社会の役に立っているでしょうとでも言っているような、そんな印象を受けたのだが、果たしてそうだろうか・・・。

 

 社会的にも家庭的にも、その役目や責任を果たしたそれからの時こそ、ひたすら自分を磨き、自己投資をし、群れることなく一人で生きる力をより強固なものとしなくてはいけないのではないか。

生きてきたこれまでの自分を、楽な安易な方向へと導くのではなく、それぞれが選んだ人生のテーマにむかい、とにかく学び、何が本当なのかを見極める“目”と“心”を養い、まだまだ沢山の人と出会い、沢山の体験をし、自分とは、人間とは、生きるとは、死とはーそれらのことを世間一般の常識に流されることなく自分の目で、心で、力で、自分だけの「セカンドステージ」に生きることが大切だと私は思う。

 

 決して死ぬまでの消費の時間などではなく、さらに人が人らしく生きてゆくための努力、学習をしながら、より自分を高め、自分らしく満たされた生き方をしてゆく場が「セカンドステージ」と言えるのではないだろうか。

 

 つい最近、そんな思いの中で「立教セカンドステージ大学」を知りました。

講座の時だけの通学ではなく、若い学生達と同じように毎日通学し、時に学生達と同じ科目を学ぶ。

歴史と伝統の重みが大学のあちらこちらに漂う立教大学を母校とする私の長男を、常々羨ましく思っていた私でもあり、是非入学して学びたいとすぐに志願決意しました。

 この先、学んで何をするのかはわからない。

始まったばかりの私の「セカンドステージ」だが、死ぬまで学び、自分自身にチャレンジし続けてゆきたいと思う。

                         2008年1月24日

 

2010 年 1 月 4 日

「ザ・ヒロ子」29  あん子(著)

カテゴリー: ザ・ヒロ子 — 2nd_house @ 10:55 AM

怖くて聞けないこと

 

マコと望、ママと一緒で良かった?

それとも・・・。

 

 

2010 年 1 月 3 日

「ザ・ヒロ子」28  あん子(著)

カテゴリー: ザ・ヒロ子 — 2nd_house @ 9:32 AM

息子

 

 私は「芸術家になろう!」と写真の大学を選んだ。

途中の“駆け落ち”等、諸々の理由で中退、芸術家にはなれなかった。(卒業できても芸術家にはなれなかったと思うが)

けれど2男、望が私の血をついでか(!?)大学のあと映像の道へ進み、まだまだ無名だが、映画監督を仕事としている。

2002年、商業映画初監督デビュー、その後TV深夜ドラマ、そして昨年(2007年)低予算だが映画を作った。

決して映画の道は楽な道ではなく、その道での生活は実に大変なものだ。

私は二人の息子達が進む道を選ぶ時、こう言った。

私を理由に進路を選ばないで欲しいと。

一般的に母子家庭の子は、早く母さんを楽にさせたいからとか、高校を出て、公務員とか堅実で生活に困らない職業を選ぶ事が多いように思う。

本人が心から希望するならそれは良い。

私はただ親のためとか自分以外の理由で進路を決めるなと言いたかったのだ。

好きな道を歩いて欲しい。本当に自分が心から好きな道を。

私は二人の息子達にそう願った。

 

映画の道を選んだ望・・将来の保証も安定した収入もなく、生活は本当に大変だが、好きな事に生きるその目、その姿は見ていて気持ちがいい!

いつかきっとすばらしい映画を作り、有名な監督になる日がくる!

いつかきっと・・・バカな母はそう信じてワクワクしている。

一般的に子の出世は(特に芸術の世界)、親が死んだ後にするもので「母さんが生きていたら見せてやりたかった」なんてお墓の前で涙する(!?)のがよくある話。

と言うことは、私が生きているうちは出世できないと言うことか!?

早めに死ななくてはとも思うが、どうも私は長生きしそうな気がする。

望、ごめん!

 

私達親子3人は今こうしてそれぞれが好きな道を歩いている。

誰かのためではなく自分のために生きている。

そうすることがお互いを認め合いお互いを大切に生きる事になると思うから。

母のために子が生きるのでもなく、子のために母が生きるのでもない。

誰のためでもない、自分のために生きるのだ。。

 

 「マコは今の道で本当に良かったと思っている?長男だから弟を思い迷惑かけられぬとサラリーマンになったのでは?」

長男誠は塾の講師をしている。

「そんなことないよ!好きで選んだよ!楽しい仕事だ!」とマコは言う。

まあ、いいかぁ・・・。

 

 マコは大学の頃、ストリートミュージシャンをしていた。

自分で作詞作曲をし、池袋の駅前とかでギターを抱え歌っていたそうだ。

 毎年5月の連休に帰省してくれる誠が(塾はお盆もお正月も休みがない)ギター・カセットデッキ・マイクをお風呂に持込み(お風呂はエコーがきくからと)2日間かけて『MAKOTOPerfectWorld』という28曲ものオリジナル曲が入ったカセットテープを母の日のプレゼントにくれたことがある。。

その中に「22歳」という曲があった。

(ケンちゃんがくれたレコードも「22歳の別れ」。偶然か!)

立教大学在学中、学園祭で披露して拍手喝采をあびた曲でもあるというその曲は、なんと私の事を詩った歌だった。(曲もステキ!)

  

 

 『22歳』

                    作詞・作曲  梓木 誠

 

おふくろから宅急便届いた  梨が食いたいと言ったから

約束どおり梨が12個  ハウスみかんにグレープフルーツ

おじさんが釣ったというシャケ タオルにテレフォンカードにバター

ホタテの貝柱にとうもろこし メイドイン・チャイナのTシャツ

 

そして手紙が一通入っていた。

 

犬と二人 何とかやっています

もうすぐこっちは冬になります

毎朝、雪かき忙しくなります・・なります・・なります・・

 

おふくろから手紙が届いた

 

誠実に苦しむような字が そこにあった

今年でもう44になる

一人になってからは 初めての冬

 

毎月欠かさず送ってくる5万が

わいてくるものではないと かみしめています

真っすぐに 孤独に 一人戦っているあなたの姿が

目の奥に浮かびます

 

高校時代 どんなわがままでも きいてくれたあなた

自分の思う道をまっすぐにと あなたは僕にそう言った

 

だけど北海道の冬は

一人じゃ 淋しすぎます

長い 寒い 苦しい

たった一人の冬・・冬・・冬・・

 

頑張らなきゃ 苦しまなきゃ 強くならなきゃ

真っすぐ見なきゃ

あなたを見て育ってきた私を 見ていて下さい

 

あなたに 近づけるように

あなたに 近づけるように

 

いつのまにか 僕は22・・

いつのまにか 僕は22・・

いつのまにか 僕は22・・

 

ありがとう!マコ!・・・ケンちゃんと息子誠からもらった22歳の歌、私の宝物。

 

 

2010 年 1 月 2 日

「ザ・ヒロ子」27  あん子(著)

カテゴリー: ザ・ヒロ子 — 2nd_house @ 10:33 AM

神様の粋な問いかけ

 

 ケンちゃんと別れて何年か過ぎた頃、「50歳」になったら、死ぬ前に一度だけケンちゃんと二人きりで会ってみたいと思っていた。

昔の親友にでも会うみたいに。

50歳を通り過ぎ、もうすぐ60歳になる私だが、今はこのまま会わずに死んでいこうと思っている。

深い意味はない。人生の流れに抗うことをしてはいけない気がしただけだ。

会う時がくれば会うだろうし、会う必要がなければ会わずに死んでゆくだけの事。

そう思う。

 

 神様は粋なはからいをしてくれた。

平成8年5月8日、母の日のこと。

離婚をして深野を出た後も、父の日、母の日、お父さん、お母さんの二人の誕生日には私の手作り料理とお花とプレゼントをあげるのが恒例となっていた。

いつもは電話などせず直接深野へ行く私が、その日は午前中に旭川へ行く用事があり帰りも遅くなるので、どうしてもお母さんが在宅かどうかを確認したく深野へ電話をかけたのだ。

「もしもし、深野さんですか?」

「・・・・・ハイ・・・」

「あれェ?寅さん?」(寅さんとは、お父さん達と同居しているケンちゃんの妹さんのご主人。「寅三郎」と言う)

いつもとどこか様子が違う「ハイ」・・お父さんの声ではなく、寅さんの声でもない。

小さな声がした。

「・・・・ケンジです・・」

「え〜っ!!!ケンちゃん!!!なぜ居るのォ?」

「昨日、身内の結婚式があって・・」

「そうなんですかァ!ええと、お母さんいますか?」

「いや、誰もいないんです。みんなで南町の母のお兄さんの家に行っています。」

「あら〜!どうしよう!今日母の日で、でもこれからすぐに旭川の病院へお見舞いに行かなければならなくて。じゃあ、とにかくお兄さんの家に行ってみます!それじゃあ・・・」

と受話器を置こうとする私に

「・・元気でしたか?」少し恥ずかしそうな小さな声でケンちゃんが聞いた。

「うん!元気!あのね、この前のゴールデンウィークにマコと望が二人一緒に帰って来てくれて、3人で浦河、日高の方へ馬を見に行ったの。ちょうど“シンザン”(競馬史上初の5冠馬)が最長寿達成の日とかでNHKが取材に来ていて親子3人インタビューされニュースに“出演”したんだよ!帰りは池田町の“牧場の家”でお肉いっぱい食べて、山盛りのソフトクリーム食べて帯広の温泉に泊まって、すごく楽しかったよ!」(「シンザン」は1996年5月3日競馬馬として最長寿記録達成。同年7月3日死亡。私たちが会って来た年のことだが、なんと私はシンザンちゃんに気にいられ“ご飯”の草を食べさせてあげる役目を給仕の方がさせてくれた。)

「そぉ〜!3人で馬を見てきたのォ!テレビにも出たんだァ!」とケンちゃんが言う。

「3人が一緒に会えるなんて、どこかへ行けるなんてマコと望が大学へ行ってから初めてなの。だからとっても楽しかった!うれしかった!」(二人とも東京の大学で、マコは立教大学に行き野球の部活や塾教師などのアルバイト、望は上智大学に行き家庭教師やファミレスなどのアルバイト、この頃から3人が一緒に会える事が少なくなっていった。)

まるで昨日もどこかで会ったかのように自然に私のままに、ケンちゃんのままに会話している。あれから22年の歳月が流れているはずなのに・・。

ほんの5分くらいの会話だった。

最後にケンちゃんがきちんとした声で言った。

「じゃあ、元気でね。・・・・よろしく・・お願いします・・・」

少し間があり・・静かに電話が切れた。

電話の切れた音で私は我に返った。

えっ!今私、誰と話したの?電話で話したのは誰?ケンちゃん?

今、私、ケンちゃんと話したの?えっ?何をよろしくって言ったの?

マコと望?それともお父さん、お母さんのこと?

ただの「よろしくお願いします」?

 

私の鼓動はハト時計のハトのように心臓を出たり入ったりしていた。

あれからの22年をそれぞれ生きる途中での、偶然の出来事。

何回も何回もたった今話したケンちゃんとの何気ない短い会話が頭の中で巻き戻され再生を繰り返す。

“我が家の一大事”とばかりに東京の誠と望に電話で報告。

「ねえ、ママ、今誰と話したと思う?パパだよ!ママ、今パパと話したんだよ!22年ぶりに!」

二人は同じ事を聞いた。

「へ〜!良かったね〜!何を話したの?今どんな気持ち?」

「いろいろ話したよ!どんな気持ち?まだドキドキしていて自分が誰と話したのかわかんない、夢みたいな気分!」

それが私の返事だった。

 

 興奮する私を鎮め、お母さんに母の日のプレゼントを渡し旭川へ走る。

腎臓がんで手術をした親友が旭川の病院で待っているからだ。

運転中も電話の事で心いっぱいで、2時間あまりの旭川の病院までがあっと言う間だった。

着くなりその出来事を入院している彼女に話す。

彼女は言った。

「ヒロちゃん、ケンちゃんに会っておいでよ。ヒロちゃん、まだケンちゃんが好きなんだよ、だから一度会っておいでよ!会うべきだよ!」

「うん。いつかそんな時がきたらね。でも、今はまだだめだ。私の中の“俗なるモノ”が消えて静かな気持ちになった時にね。今はまだだめ。心に“色気”があるうちはだめ。」そう答えた。

そんな会話を私に残し親友はその半年後、1歳と2歳の子供と御主人を残し42歳の短い生涯を閉じた。

離婚後、一人で生き始めた頼りない私と誠と望を支えてくれた大きな大切な心の友だった。

 

 神様は私の心を試したのだ。

穏やかになりきれていない私の心をチョコンとくすぐるみたいに・・。

あれから12年、無論、会いに行くことはなく、途中で分かれたそれぞれの道を、二度と交差することのないそれぞれの道を、ケンちゃんと私は今も歩いている。

それでいい。もう34年も別々の道を歩いて来ているのだから。

今の私はそう思う。

 

 長男誠が19歳の時、大学受験のため上京した。(一浪してこの年「立教大学英米文学科」に合格)

「東京でパパに会ってきたいんだ。ママが愛した“ケンちゃん”と言う人がどんな人か見てみたい。自分の父親がどんな人なのか見てみたくなった。」と誠が言った。

ケンちゃんは札幌でタクシーの運転手をしたあと、自動車のセールスマンをし、そのあと警察の刑務官として働いていた。

その時は東京の刑務所に勤務していた。

私は誠の思いを深野のお父さん、お母さんに話しケンちゃんに伝えてくれるようお願いし、会う約束ができた。

平成2年2月10日、立教大学受験の前日、誠は父ケンちゃんに会いに行った。

はじめは喫茶店だったそうだ。

ケンちゃんは30分くらい、ただだまって誠を見つめていたと言う。

しばらくして、(生まれて3ヶ月の時に別れた)弟の望は元気かと、ママは元気かと聞いたそうだ。

「知っているか?ママは高校時代バスケットの選手ですごかったんだぞ!」とかママの話ばかりしていたよと誠は言った。

そのあとケンちゃんの自宅に行き、今の“奥さん”と会ったそうだ。(あの時の彼女が“奥さん”だ)

“奥さん”は誠を見て言ったそうだ。

「お母さんとそっくりになったわね」と。(私の顔、憶えているんだ・・。あの時私は確かに彼女のアパートに行き彼女と会ったが、顔を憶えるほど彼女を見る余裕がなく、彼女がどんな顔をしていたのか今も思い出せない。ただ腰まで届く長い髪が印象に残っている。)

「もうすぐバレンタインデーだから」と“奥さん”がチョコレートをくれたと言う。

「ママが愛したパパ、すてきな人だったよ!刑務官と言う仕事の話もたくさんしてくれたよ。すばらしい仕事をパパはしていた。」

誠は帰って来てそう言った。16年ぶりに再会した父、3歳から望の兄として健気に頑張ってきた19歳の誠の内なる心は“父”に何を見、何を感じてきたのだろう。

いろいろ聞きたい思いを胸にしまい、それ以上話すこともなくお互いの心にベールをかけたあの時・・。

 

 この夏、転勤族で今は函館で仕事をしている誠と会ってきた。(平成20年9月10日、私の大学の夏休みの帰省の時)

16年前の心のベールを少しだけ開き、ふと疑問に思っていたことを誠に聞いてみた。

「東京でパパと会った時、なぜパパの家に行く事になったの?」

誠は答えた。

「そういう“条件”で奥さんから許可をもらい僕に会いに来てくれたからだと思う。奥さんはパパと僕を二人きりで会わせたくなかったのだと思うよ。だからパパは最初から下の女の子を一緒に連れて来ていたし、パパの家にも行った。僕は思った。もうパパに会うのはやめよう。パパにこんな辛い思いをさせてしまう。もう会ってはいけないんだ、そう思った。パパがかわいそうだと。

パパが一番苦しんでいると思う。望や僕よりやっぱり一番ママに申し訳ないと思っていると思う。僕はあの時パパに会ってそう感じたし、今もそう思っている。」

もう捨てたハズの過去と今とに挟まれる人の心の痛みを誠は感じてきたのだろう。父の過去のモノである自分が今の父を苦しめてはならぬと・・。

すばらしいと思う。素直に私は誠をすばらしい子だと思った。

どうであれ、こんな私の傍で大好きだった父を恨むこともなく34年間一人で誠の力で彼の辛い心を乗り越えてきていたのだ。何だか私はとてもすがすがしい気持で誠を見つめた。

凄いね、マコ!

ありがとう、マコ・・。心の中で拍手した。

 

誠がケンちゃんに会って来た時、高校生だった弟の望に聞いてみた。

「望もパパに会ってみたくない?」

「俺はまだいいや!」望の返事だった。

父を知らない望(生まれて3ヶ月だった)、3歳まで可愛がってもらい父が記憶に残る誠とは違う、望だけの思いがあるのだろう。

「まだいいや!」から18年が経ち34歳になった望、いつか心を聞かせてくれる時がくるだろうか・・。

 

 そして、神様はもう一度私の心をノックした。

深野のお母さんの父親が亡くなった時だ。(平成12年9月)

「小田栄作」と言うそのおじいちゃんは、奥さんを早く亡くし一人で謙虚に静かに書道を教え、菊の花作り(展覧会で何度も優勝)に生きる私の大好きな方だった。(96歳で天国へ)

亡くなった事を知り、身内のケンちゃん達も来るだろうお葬式に私は参列して良いだろうかと考えた。

お香典だけを受付におき、後から自宅へお別れに行こうか。

けれど、たとえケンちゃん達がいようといまいと、私にとってお通夜にきちんと最後のお別れをお礼をしなければならない方だった。

事あるごとに、私達親子の成長を静かに見守って下さった方だからだ。

お通夜が始まるぎりぎりまで待って斎場へ行き、目立たぬよう空いていた最後の列の席に座った。

びっくりした。すぐ前に座る参列者の誰かと立ち話をしているケンちゃんが立っていたのだ。

私は思わず顔を伏せた。すぐにケンちゃんは話を終え一番前の身内や親戚の人達の席にもどって行った。勿論私には気づかずに。、

遠くに見えるケンちゃんは、両手を腰に当て腰が痛いんだ見たいなしぐさをしながら横に座る女性に少し微笑み・・奥さんだった。

選んだ席でもなく、最前列と最後列まで何列もあり、びっしり参列者が座っているのに、ちょうど座る人々の頭と頭の間に二人の様子が見えてしまう席に私は座ってしまった。

私はうつむきかげんに座っていたが、前方に小さく見えるケンちゃんと奥さんが肩を並べて座る後ろ姿を、その様子を、見てはいけないものを見るかのように見ていた。

思いもよらなかった。。

その二人の後ろ姿を見ているうちに、離婚をして26年が過ぎると言うのにケンちゃんと私の出会いから離婚までの6年間の二人の姿が、ビデオの早送りのように、ダイジェスト版のようにひとつひとつの出来事が鮮明に心に浮かんできたのだ。

私へのバースデープレゼントは毎年拾ってきたかわいい子猫や子犬で、北海道へ帰省の時は、何匹もの猫や犬を連れ帰り大変だった事。(親の仕送りを受けながら、猫や犬を飼うけしからん嫁と深野のお父さんから何度も叱られ、私のいない間に捨てられた。)

 

 赤ちゃんが産まれる少し前に、大塚のおばあちゃんの家へ遊びに行った帰りの事。

小田急線町田駅から森野3丁目までのバスの中、くしゃみをしたら臨月のお腹に膀胱が押されたのか、くしゃみと一緒におしっこが全部出ちゃって、下りた停留所でぬれた私の足をケンちゃんが拭いてくれたこと。

「おしっこ出ちゃったね!」と私。

「途中で止められなかったのかい?」とケンちゃん。

ぬれた下着でピョコピョコ歩き、二人で手をつないで笑いながら帰ったこと。

 

 映画が大好きだった私達。

池袋の文芸座へ行き(当時は新作ではないが200円で2本立て映画が見ることができた)いつも満員の観客で座る事もできず、背の小さい私が少しでも見えるようにと、ケンちゃんの靴のつま先の上に私を立たせ最後まで体をささえてもらい立ち見した事。

ボーリングがとても好きで上手だったケンちゃん。(当時はボーリングブームでケンちゃんは“マイボール”まで持っていた。)

左腕を斜め上に高くあげ、5本の指を大きく開いたフイニッシュ姿。

 

 ケンちゃんの妹、ユウコちゃんと友達の田山君と4人で向ヶ丘遊園地へ行った時のこと。

先にプールの中で立っていたケンちゃん達をめがけてドボン!

ケンちゃん達との背の違いを考えずに飛び込んだ私は、水面から顔を出せず入るなり溺れ、係員の若いお兄ちゃんがあわてて飛んできたこと。

泳げない私の両手を引きプールの中を何度もクルクル廻ってくれているうちに、あんパンみたいなクッションが入った花柄ビキニの上が取れ、上半身スッポンポンで泳ぐ私を恥ずかしそうに笑ったケンちゃん。(今も私の胸には、ビキニをささえる“突起”がない。)

 

 “駆け落ち”をした中野坂上のアパートで、犬も食べない些細なケンカの度に、私は空(から)の旅行バッグを片手に“家出”をし、すぐ横にある青梅街道の立橋の上で、自信満々に当たり前のように連れ戻しにくるケンちゃんを待っていたこと。

 

 長男誠の出産の前日、ケンちゃんとお友達と徹マン。(徹夜麻雀の事。私は同じ絵のパイを二つそろえる「ニコニコ」とポンとチーしか知らなく、勿論点数なども計算できなく人数がいない時だけ参加させられた)

夜中の午前1時頃陣痛がきて、レンタカーで病院へ向かう途中、当時学生運動の内ゲバの全盛期であり、途中で警察の検問を受けた。

まさに長髪で学生のケンちゃん、友達の田山君、お腹ポンポコポンの私に懐中電灯を顔の真近に当て、職務質問。

当時女性運動家が目立ち、そのせいか陣痛に苦しむ私のお腹まで怪しみ「痛い痛い!」と苦しんでいるのに芝居かも知れぬとなかなか信じてもらえず、やっと病院までたどりつき、痛みにべそをかく私に「これからあなたは母親になるのよ!しっかりしなさい!」と怖い看護婦さんに鏡の前に立たされたこと!

 初めての出産。陣痛の激しさ、痛み。

それはそれは想像を絶する痛みであり、分娩につきそってくれた怖いケンちゃんのおばあちゃんに「腰をもめ!背中をもめ!違う!そこじゃない!右!」とか陣痛の痛さに我を失い命令、後になっておばあちゃんにビクビクしていたこと。

 

 そんなケンちゃんとの些細なひとつひとつが、6年間が、次から次へと思い出された。

ポロポロ涙が出てきて、どんどん出てきて、声まで出そうになるほど涙が出てきた。

お通夜の場所で、よほどお別れが悲しいのだろうと泣いても不自然ではなかったが、何よりも誰よりも泣いている自分に、その涙に私が驚いた。

もうケンちゃんとの事も私なりに整理をした離婚と思っていたのに、なぜこんなに涙が出るのだろう。

なぜ悲しい。なぜ私は泣くのだ。

納得して自ら承知をした離婚ではなかったか。

いつも思ってきたではないか。私も頑張る。ケンちゃんも頑張って奥さんと幸せになってと。

それは“嘘”だったのか。

ケンちゃん夫婦の後ろ姿が私を悲しくさせるのだ。

どうか幸せでいて下さいと思っていたのは嘘だったのか。

私の心のどこかに許せない、許してはいないからの涙なのか。

所詮きれいな自分を装っていただけ?

現実の二人の姿を見て、辛い事がいっぱいあったんだよ。

あなた達のせいで私とマコと望はいっぱい辛い事があったんだよと心で叫ぶ自分に気づかされたのだ。

人の幸、不幸など他人が外から見てわかるものではないが、ケンちゃん夫婦が肩を寄せ合う後ろ姿を見て、なぜか自分がとてもみじめに感じたのだ。

式場で人目を気にして堂々とできない自分がとてもかわいそうに思え、なぜ私がこんな思いをしなければならないのかと“不服”に思う私がいたのだ。

愛しているから別れた・・その思いに嘘はない。

けれど私はきれいごとを言っているのか。

自分と言う人間を美化してきただけの“偽善者”だったのか。

自分を騙して生きてきたのか。

そんな思いがどんどん私を泣かせた。

“悪い”のはケンちゃんの方だ、私は精一杯、一人で我慢をしてきたのだから・・。

泣いて泣いて誰にもわからぬ、自分にもわからぬ心に泣いて、人目を避け逃げるように家に帰った。

 帰宅すると小学生の誠と望が出迎えてくれ・・・一気に抑えていた堰(せき)が切れ私は泣きくずれそうになり・・「ママお風呂に入るね!」と裸のまま声を殺して泣いたあの夜を思い出す。

 

 神様は私の心の本当を聞いてきたのだと思う。

ケンちゃん夫婦の姿を見せ、お前のその心は本当か?・・と。

 今でも泣いた心をすっきり整理できずにいる。

自分を美化せず恨むなら恨み、憎いなら憎め。もう一度自分の心の奥に問いかけ嘘はつくな。そう神様は泣く私に言った気がした・・。

 

 私ははっきり思う。恨んではいない。憎んでもいない。

ただ私がずうっと心に背負ってきたひきずるものを、ケンちゃんも、ケンちゃんの心にもあって欲しいと思う。

苦しめなどと言うのではない。

どんな理由があれ、一度結婚した人間が妻と子供への「責任」を捨てたことだけは忘れて欲しくないと思うのだ。 

 私が生きてきたのは私に責任を感じているからであり、自由奔放に生きた人間としての責任からであり、ケンちゃんとは関係のない自分の責任から生きてきた。

ケンちゃんへの意地でもなく奥さんへの意地でもなく、私は私への責任があって生きてきた。

どんなに辛くても、生きなくてはいけない責任があり、何より自らの行動と選択で二人の子供の親となったからだ。

 

 確かに私は、ケンちゃんの愛に“あぐら”をかき、ひたすら良い嫁と認められたく毎日毎日私ではない私を頑張り、そんな私がケンちゃんを遠ざけ今の奥さんを選ばせ、だから私にも責任があると思う。

しかしそう思うのは、ケンちゃんの心の中から私という存在が消えた事への自分への言い訳で、自分が置き去りにされたことをダイレクトに認めたくない自分がいるからなのだろうか。

自分の傷を少しでも和らげようとする無意識の心からなのか。

人は、人の心は難しい。恨んではいない。憎んでもいない。

けれど私の心は哀しいと泣くのだ。

思えばこの哀しい心が私の芯となり生かされてきたのかも知れない。

哀しい心が芯棒にあったからこそ頑張ってこれたのかも知れない。

“哀しみ”が心の子守歌となって・・。

 

不思議なものだ。時間とは本当に不思議で尊いものだ。

幾時間流れても消してはくれぬ哀しみもあるが、新たに知らず知らずなかったものが生まれる事もある。

ケンちゃんとは別れたが、ケンちゃんのお父さんお母さんとの34年は不思議な希有な関係をいただいた。

まるで‘親娘’のような“関係”をいただいた。

お父さん、お母さんは私達を本当にどんな時もケンちゃんに代わって見守ってくれた。

離婚の後も「お父さん」「お母さん」と呼ばせてくれ、誠や望はもちろんのこと、私をも「ヒロ子さん、ヒロ子さん」と可愛がって下さる。

私は思うのだ。あのまま深野の嫁でいたら、こうはならなかっただろうと。

嘘のない、ただお互いがそれぞれの役目を懸命に生きてきた時間が作ってくれたものだと思う。。

時間がくれた不思議で美しい人生の贈り物だ!

“元嫁”の私は良く見せる必要もなく私のままを見せて来た。

気がつけば不思議な“親子”のような関係。

34年という時間のひとつの“カタチ”となった。

 

今お父さん86歳、お母さん83歳。

ケンちゃんの息子さんは結婚し二人の子供がいるようで、お父さんとお母さんは生きているうちに誠と望が結婚してすぐにも二人の孫が見たい・・会う度に私に言う。

親があまりに早く結婚し、離婚をしたせいか二人は慎重だ。

今年37歳、34歳になった二人だが、もしかすると見えないところに孫がたくさんいるかも知れない。

モテないだけか!?

するべき時がくればするだろうし、こなければしないだけのことだ。

 

 

2010 年 1 月 1 日

「ザ・ヒロ子」26  あん子(著)

カテゴリー: ザ・ヒロ子 — 2nd_house @ 1:24 PM

「深野」の立場と私達

 

 お世話になった深野の家を出る日が来た。

梓木へは戻らず「自立」を希望し町営の古い汚い団地に引っ越した。

前日までは午前10時に引っ越す予定になっていたが、真夜中の午前3時頃、お父さんがドタドタ2階の私達の寝室に上がってきて「さあ、荷物運ぶよ!」と言う。

まるで夜逃げのように。

暗くて見えない寒い真夜中に、私達親子の「立場」を知らされる思いがして、私達よりも深野の立場を大事にしているお父さんが見える気がして、力なく荷物をトラックに積んだ。

なにもこんな真夜中にコソコソと・・・トラックの助手席で何も知らずに毛布の中で眠る誠と望を抱きしめた。

新聞配達の人が見ていたとかで、翌日、深野の嫁がとうとう出ていったと町中に広まった。

 

 1・2年後、隣町(合併前のT町)の雑木林で女性の白骨死体が発見されるという事件があった。

私の勤め先のE町立南保育所に二人の警察官がやってきた。

聞き込みをしていたら「深野さんにお嫁さんがいたはずだが、急にいなくなった」という情報が入り、生存を確認しに来たのだと言う。

 

職場の仲間とお腹をかかえて笑ったが、少しせつなかった。

 

 

2009 年 12 月 30 日

「ザ・ヒロ子」25  あん子(著)

カテゴリー: ザ・ヒロ子 — 2nd_house @ 9:47 AM

22歳の別れ

 

 3ヶ月が過ぎ、冬になった。

ケンちゃんは札幌でタクシーの運転手をしている事を聞いた。

離婚をする前に、どうしてもケンちゃんと二人で話がしたく、マコと望の顔を見せたく、二人を連れ夜行列車で札幌へ会いに行った。

列車の中でマコはいつも聞かれた。

「お父さんは?」

父親がいないことが不思議な程、幼子二人を連れた母子の姿だったのか。

列車は翌日の朝6時過ぎに札幌に着いた。

タクシー会社に電話をし、ケンちゃんの出勤時刻を聞き、駅の構内で望にミルクを飲ませ、おむつを取替え、マコと朝ご飯のパンをかじり、ケンちゃんのタクシーを待つ。

今でも、駅などでたくさんの荷物を持ち小さな子供を連れた若い母子の姿を目にすると、つい立ち止まって見てしまう。

何年たっても、あの時の不安な思いの自分が、幼い子供達のこれからが25歳の頼りない母の私に託されている重みにつぶされそうに生きていた自分がオーバーラップしてしまうのだ。

どうか、その親子が幸せな親子でありますようにと余計な事まで思ってしまうのだ。

 

私達親子は、時間の許す限りケンちゃんの運転するタクシーに乗り、札幌の街をぐるぐる廻った。

ケンちゃんに迷惑をかけぬように、会社にバレないように、タクシーのメーターを回し、代金も払った。

1日乗って3万円くらいだった。

うれしかった。楽しかった。何を話したのか忘れてしまったが、周りの全てから遊離した、ケンちゃんと私とマコと望の「普通」の時間だった。

マコもうれしそうだった。望はまだ何もわからない赤ちゃんだったがニコニコしていた。二人ともケンちゃんと良く似ていた。そう感じた。

 

よりを戻した訳ではない・・。お互いの大切に思うモノを、知らなかったお互いを皮肉にも別れの時に感じ合えたような不思議な“デート”だった。

最後に私は「彼女を奥さんにして、私を愛人にして!」と冗談のようにケンちゃんに言った。

「そんなことできるわけがないだろう」笑いながらケンちゃんが応えた。

私は本気だった・・・。

 

「これ今の俺の気持ちだ・・」

別れ際、ケンちゃんは札幌狸小路(たぬきこうじ)近くのレコード店の前に車を止め、『22歳の別れ』(“風”)というレコードを買ってくれた。

それが6年の歳月をともに過ごしたケンちゃんと二人きりで会った最後だった。

 

   『22歳の別れ』

          1974年 かぐや姫 伊勢正三作詞・作曲

 

あなたに さよならって 言えるのは 今日だけ

明日になって またあなたの

暖かい手に触れたら きっと

言えなくなってしまう そんな気がして

私には 鏡に映った あなたの姿を 見つけられずに

私の目の前にあった

幸せにすがりついてしまった

 

私の誕生日に

22本のローソクをたて

ひとつひとつが みんな君の

人生だねって言って 17本目からは

いっしょに火をつけたのが

昨日のことのように

今はただ5年の月日が

永すぎた春といえるだけです

あなたの知らないところへ

嫁いで行く私にとって

 

ひとつだけ こんな私の

わがまま聞いてくれるなら

あなたは あなたのままで

変わらずにいて下さい

そのままで・・・

 

 ケンちゃんはもうこんな歌のことなど忘れているかも知れない。

いや、後悔をしているかも知れない。このレコードをくれた事を。

それでもいい。

今はあとかたもなく消えてしまった心であっても、私にとっては、あれからを生きた私にとってはこの歌が、この詩が生きる力になったのだから。

 

それでいい。たとえ忘れられても、今はそんなこと思っていないと言われてもそれでいい。

私を支えてくれたのは、マコと望とこの歌なのだから。

 

それからしばらくしたある夜遅く、ケンちゃんから電話がかかってきた。

公衆電話からのようで傍にいる彼女の普通ではない叫ぶ声が聞こえる。

「もっとはっきり言え!!はっきり言ってやれ!!」と彼女が狂ったように言い「早く離婚届に判を押して送って来い!!お前の所へ帰る気もないし、子供が欲しいと言うならお前にやる!お前になんか、みれんも何もない!」とケンちゃんが怒鳴った。

初めてだった。初めて聞いた。あんな風にののしり、汚い言葉を口にするケンちゃんは。

まるでヤクザのようだった。

そんなケンちゃんと横で私を罵倒する彼女の声が怖くて、悲しくて、返事をできぬまま電話は切れた。

涙は出なかった。ただ寂しかった。どこかへひきずり下ろされた気がした。

彼女の言いなりに感情的に、言葉汚く私をののしるケンちゃんが哀しかった。

レコードをくれた同じケンちゃん。

あとで聞いたが、私達親子が夜行に乗って会いにいく姿をE町に住む彼女のお姉さんが見て、知らせたそうだ。

 

 間もなくの事だった。

E町役場の戸籍係から電話が入り札幌で勝手に離婚届けが出されていることを知った。私が署名していない私の知らないところでの離婚届が。

怒りたくなくても怒り、自分の言い分を言わねばならない時が人にはある事を知った。

梓木の兄達はものすごい勢いで怒った。

弁護士を立て裁判を起こす事を深野に伝えに来た。

裁判などどうでも良かったが、勝手に戸籍から抜かれた事を怒らなくていけない、法律的な離婚をする時がきた。

裁判は札幌で行われ5回くらい裁判所に通い、最後に双方が会って離婚届に署名、捺印をした。

もめる事もなく、誠と望の親権も母親で良いという型通りの協議離婚だった。

4人の調停委員さんがいて、一人の方が聞いた。

「あなた達、本当にこれでいいの?別れていいの?」

久しぶりに再会したケンちゃんと私、不思議な程に自然な笑顔で軽く会釈をし、ケンちゃんが引いてくれた椅子に座り・・・調停委員がこれでよいのかと確認したくなる程、何気ない二人の姿だったのだろうか。

電話で口汚くののしったケンちゃんはいなく、私の知っている優しいケンちゃんがいた。

突然のあの日から1年あまりが過ぎていた。

私は「深野ヒロ子」から「梓木ヒロ子」になった。

流行歌「昔の名前で出ています」みたいな旧姓に戻ったのではなく、二人の子供と生きる“新生”「梓木ヒロ子」の始まりの日・・・そんな思いで署名した。

少し、震えた・・。

 

2009 年 12 月 28 日

「ザ・ヒロ子」24  あん子(著)

カテゴリー: ザ・ヒロ子 — 2nd_house @ 10:08 AM

一冊の本と別れ

 

 東京にいた頃のケンちゃんは夜通し本を読んでいた。

トルストイ、ドストエフスキー、埴谷雄高など朝まで夢中で読んでいた。

私はと言えば、今日はマタニティスクール、明日は新宿で買い物などと、本など開くこともなく、マコを着せ替え人形のように毎日何度も洋服を取替え、「ワー!かわいい!見て、ケンちゃん!マコかわいいでしょ!」

軽ゥ〜いアホな母だった。

長編が苦手な私は、あろうことか、自分で読まずに、子供が親にしてもらう寝る前のお話のようにケンちゃんに「読んでエ」

読み始めるやいなやマコと私は眠りに入り、毎晩同じページから進まなかった。

ある時、ケンちゃんが少し興奮気味に「ヒロ子!この本読んでみろよ!すごくおもしろいんだ!」

こう言って一冊の文庫本を差し出した。

「うん、わかったァ!あとで読む!」

そのまま開くこともなく忘れていた1冊の文庫本。

 

本箱の片隅に、その一冊の本があった。

ケンちゃんが読めと言った本・・会いたくても会えないケンちゃんに会いに行くかのように頁を開いた。

 

 坂口安吾の『堕落論』だった。

夢中で読んだ。読まされた。

『悪妻論』『恋愛論』『エゴイズム小論』『堕落論』『欲望について』『不良少年とキリスト』・・・味わったことのない衝撃にうちのめされた。

『問題は、ただ一つ、みずからの真実とは何かという基本的なことだけだろう。

常識、いわゆる醇風良俗によって悪徳とせられること必ずしも悪徳ではなく、醇風良俗によって罰せられるよりも、自我みずからによって罰せられることを怖れるべきだ』

『妻ある男が、良夫(おっと)ある女が恋をしてはいけないなどと考えてはいない。人は捨てられた一方に同情して捨てた一方を憎むけれども、捨てなければ捨てないために、捨てられた方と同価の苦痛を忍ばねばならない・・』

『より良く生きぬくために現実の習性的道徳からふみ外れる方が遥かに誠実なものである』(『』堕落論より抜粋)

自我への誠実な追求、そして『心の命ずるままに生きよ』・・・凄い本だった。強い衝撃を受けた。

私の思いがここにある!

私の心を言葉なく解ってくれる人がここにいる!

誰と話をしても、誰に相談しても心の空白を埋める事はできずモヤモヤとどうにも見えずにいた私の心を理路整然と落ち着かせてくれた。

この小さな一冊の安吾の本が。

ケンちゃんがおもしろいと言ったのは、安吾の何を言ったのかは知らない。

 

私にとっては、生まれて初めて本当に一人ぽっちになった、孤独の中にいた私の心に息吹を感じさせてくれた本だった。

もしあの時すぐに読んでいたら、ケンちゃんと私は熱く夢中になって語り合ったことだろう。

よりお互いを感じ合ったことだろう。

なぜあの時読まなかったのだろう。

あの時読んでいたら・・あの時読んでいたら・・

何度も何度もそう思った。

 

 私の知らなかったケンちゃんが、この本を読めと言ったケンちゃんの何かが伝わってくる気がした。

 

 『堕落論』の中で、私は再び「ケンちゃん」という人に出会った。

この本を読めと言ったケンちゃんに、今はいない、私よりも彼女を選んだケンちゃんに今度は本気で恋をした。

一人の清新なケンちゃんと言う人間に。

私の恋は再び燃えた。

 

 手紙を書いた。長い長い手紙を書いた。

『私がケンちゃんの言う事を聞くのは、聞いたのはこれが初めてで最後だと思います・・・』

今でも忘れられないこんな書き出しの長い別れの手紙を書いた。

二人の子供の父親にではなく、私にとっての心のケンちゃんに自分の赤裸々な思いを書いた。

母ではない私が、父ではないケンちゃんに思いを書いた。

ケンちゃんが好きだから、愛しているから別れるのだと。

愛しているから離婚をするのだと。

彼女との事実が“きっかけ”ではあった。

しかし今ようやく長い長い一人の孤独な時間に耐え、自らの意志で自らが選んだ離婚に同意ができる。愛しているから離婚ができる。

手紙を書きながら嘘もなくそう思った。

始まりの一行しか思い出せない手紙だが、とても満たされた思いで書き終えた事を憶えている。

 

 ケンちゃんが離婚を求めてきたのは、私への誠実さではなかったろうか。

毎日嘘をつきながら、自分と私をだましながら生活していくことができなかったから・・。

男の人には二通りあるのだと思う。

妻や子供を捨てられる男と捨てられない男と。

ケンちゃんは捨てられる男で、私はそういう人を好きになったのだ。

父親として夫として失格だと人は言う。

しかし妻や子供を捨て、親も友人もそれまでの全てを捨ててもなお彼女と生きる人生を選ぶと言うのだ。楽な道ではない。弱者の道ではない。苦難の道だ。

いいかげんな心で出来ることではない。

かつてケンちゃんは私を愛し、誠と望が生まれた。

6年の歳月をともに生きた。それも真実。今は違っても、それでいいではないか。

そしてそれでもケンちゃんを愛すると言う私の心も真実・・それでいい。

その愛で、誠と望と生きてゆこうと思ったのだから・・。

 

 

2009 年 12 月 26 日

「ザ・ヒロ子」23  あん子(著)

カテゴリー: ザ・ヒロ子 — 2nd_house @ 10:03 PM

ケンちゃんのいない深野で

 

 毎日、してもしなくてもいいような「嫁」の仕事をしながら、一人で深野にいる私を励ましに友人、先輩達が来てくれた。札幌や東京からも来てくれた。

みんなが私を心配し、気持ちを聞いてくれ、アドバイスをくれた。

時間が経てば経つ程、ケンちゃんはいなく、マコと望と3人になった事が本当の事だと知らされていった。

お父さん、お母さんの気遣いの中で、やりきれない毎日を繋げた。

1年、1年だけここで頑張るのだ。

 

 毎日午後3時、近くのお店に夕食の買い物に行く。

わずかな時間だったが、まるでその時だけ別の世界へ逃げるような思いで、買い物かごをぶら下げエプロン姿のまま、全速力で睦夫兄さんの寿司屋へ走り、顔を見るなり何も言わず思い切り声を出して「わーん!!」と子供のように泣いた。

兄は私が泣き止むまで、困った顔で、けれどだまって泣かせてくれた。

涙をエプロンで拭き、「嫁」の私にもどり、帰る私の背中に「腹すいてないか?」いつも同じ事を兄は聞いた。

(後に兄は機内食やセブンイレブンの下請けまでになった冷凍食品会社を経営。北海道が発祥地の「スープカレー」でメキメキ飛躍するが、平成13年狂牛病の波紋を受け倒産、56歳の自分の命をお金に替えて死んでいった。会社の名前は「NAフーズ」(NA=「日本の梓木」の頭文字とか、兄らしい!)

誰が何と言おうと私には最高の優しかった兄。母子となった私達親子にお米のはてまで面倒を見てくれた兄。

飛ぶ鳥をおとすような威勢のいい、男も女もほれる一本気の男らしい人だった。

平成13年9月25日逝去、今年で8年が過ぎる)

 

やっと毎日を繋げていた。ケンちゃんとの時を思い出しながら・・。

 

 

「ザ・ヒロ子」22  あん子(著)

カテゴリー: ザ・ヒロ子 — 2nd_house @ 10:02 PM

マコの叫び

 

 なぜそうなったのかは知らないが、ある時、お父さんが誠を彼女のアパートにいるケンちゃんのところへ置いて来た。

誠を見せれば、ケンちゃんも思い直すかも知れないとお父さんは考えたのだろう。

私は嫌だった。そう言うやり方は私は嫌だった。

作為的で情的で・・・が、お父さんも必死だったのだろう。

誠がかわいそうに思った。

3歳なりの“現状”を理解している誠にそれ以上の混乱をさせたくなかった。(誠はとても頭の良い子で、3歳以上の心があったように思う。そういう子だった。)

「パパに会いに行こう!」と言われ、マコは大喜びで彼女のアパートに行ったことだろう。

 

 彼女が部屋にいたのかは知らないが、3歳のマコはいつもの家ではない彼女の部屋にいるパパをどう感じたのか。どう映ったのか。

 

 そういう“やり方”が嫌だった。マコとケンちゃんがかわいそうに思った。

 

1時間が過ぎた頃、マコが帰ると連絡が入り、歩いてすぐのK病院の駐車場でマコを待った。

マコは私を見つけ、「ママー!」と両手を差し出し、うれしそうに私の胸に飛び込んで来た。

「・・・じゃあ・・マコ・・バイバイ・・・」力なくケンちゃんが言った。

クルッと私の腕の中で向きを変え、両手をケンちゃんに差し出し、今にも私の腕から落ちそうに3歳のマコは叫んだ。

「パパー!!行かないでェ!!パパー!!」

泣きながらマコが叫んだ。3歳のマコの小さな身体全部の声だった。

辛そうなケンちゃんは「ごめんな!マコ!ごめんな!」そう言って背中を丸め逃げるように走って消えた。

まだ陽の落ちぬ明るいK病院の駐車場で、マコと私はそれぞれの思いでわんわん泣いた。

 大好きなパパが離れて行ってしまう悲しみにマコは泣き、3歳のマコにこんな悲しい辛い思いをさせ、どうすることもできない母の自分に私は泣いた。

「さあ!パパのところへ行きなさい!」と私の腕からマコを下ろしてあげたかった。

でも私はマコを離さなかった。

「マコ、ごめんね!あなたはパパについて行きたいのだろうけれど、ママは行けないの。パパとは離れられてもマコとは離れられないの。マコが必要なの。」何度も何度も泣いているマコに心で謝り、マコと私はそれぞれの思いで帰るのも忘れて泣いた。

 マコはそんな私の気持ちがわかるのか、私の腕から下りようとはせず、しがみついて泣いていた。辛かった・・・辛かった・・・。

 

 あれから34年。

ケンちゃんが見る見る消えて行くさま、叫んだマコの声・・悲しく辛い思いがそのままに心に残り、あの時と同じくらいの涙の中に浮かんだままだ。

消えるはずもないものが消え、起こるはずもないことが起きることを知った一瞬の光景。

誠の心にも、きっとそのままにあることだろう。

聞いた事はない・・。

 

 しばらくして、ケンちゃんが夜の仕事をやめた彼女とE町を出て行った事を知らされた。まだ「離婚」はしていなかった。

 

 

「ザ・ヒロ子」21  あん子(著)

カテゴリー: ザ・ヒロ子 — 2nd_house @ 10:01 PM

親孝行はできたけれど

 

母はいなかった。

私がE町に帰り8ヶ月を過ぎた昭和48年12月3日、母は突然脳血栓に倒れ58年の短い生涯を閉じた。

母が死んでから離婚をしたことが、私のただひとつの親孝行だった。

母が生きていたら、いくらお父さん、お母さんの立場を思っても、深野にいた自信はない。

私はすぐにも母のいる実家へ、母のもとに帰ったことだろう。

幼く何も分からぬ誠と望を私の“所有物”のように連れ、自分が楽になる方へと逃げた事だろう。

自分が「誰」で、「何処」で、「何」をしているのかを考えることもなく、肝心な誠と望の「母」であることをも忘れ、幼かった頃の私のままに母にしがみつき「もう深野に帰るのは嫌だ!」と泣いたことだろう。

 

 しかし母は死んで、この世から姿を消して、私の前から姿を消して、私を育ててくれた。

神様になった母は、泣いてすがろうとする私に言うのだ。

一人で立ち向かいなさい。

一人で考えてごらん・・・と。

母は私がしなくてはいけない事を、すべき事を無言で導いてくれたように思う。

「もう、ケンちゃんはいないのだよ!ヒロ子一人なのだよ!母さんもいないのだよ!母さんが見ているから、だから一人で頑張ってごらん」と・・・。

 

 ケンちゃんがいなくなったショックで、あふれる程に出ていたおっぱいもピタリと止まり、3ヶ月を過ぎたばかりの望は、出ないおっぱいを顔が真っ赤になるほど吸いおっぱいが欲しいと泣いた。

ミルクに替えても、おっぱいが欲しいと泣いた。

 

真っ逆さまに堕ちて堕ちてどこまでも堕ちて、ダメになりたいと思う私を望はおっぱいを吸い「母」から逃げさせてはくれなかった。

ダメにさせてはくれなかった。

二人で泣いた。

目的地も見えず、帰る後ろもなく、そのまま座り込む場所もなく、助けを叫ぶ誰かもいなく、とにかく生きるしかなく、行くしかなく・・・。

 

 あの時、母がいたら今の私はいなかっただろう。

あの時、3歳の誠と3ヶ月の望がいなかったら今の私はいなかっただろう。

ここまで来ることはできなかっただろう。

 

 

2009 年 12 月 25 日

「ザ・ヒロ子」20  あん子(著)

カテゴリー: ザ・ヒロ子 — 2nd_house @ 10:43 PM

一人になって

 

私は一人、真剣にケンちゃんの心の事実“と向き合った。

ケンちゃんはお酒の上ではなく “しらふ”で彼女を好きになった事。

ケンちゃんの心が変わってしまった事。

 

 「ヒロ子は一人でも生きてゆけるが彼女は俺がいないと生きてゆけない。だから彼女を選ぶ」そうケンちゃんは言った。

何故?何故私は一人で生きてゆけて、彼女は一人じゃ生きてゆけないの?

・・・わからない事ばかりだった。

わかっている事は、ケンちゃんが彼女を好きで、私はケンちゃんが好きと言う事だった。

彼女という存在が現れたからの好きではなく、駆け落ちした時のままの思いで好きだった。

 

 けれどケンちゃんの心は変わり、これからを彼女と生きたいと言う。

私達には二人の子供がいる。

私は今どうすればよいのか。

人として、妻として、母として、嫁として・・・「ヒロ子」という、わがままいっぱいに育った一人の女の子が、気がつけば、こんなに沢山の役割を持つところにいた自分に驚き、そのどれもが繋がり、どれもが私の人生だった。

 

 一本の細い川のように私の頬の上を弱々しく力なく朝も昼も夜も、何をしている時も静かに涙が流れた。

シクシクでも、さめざめでもなく、ただスーッと意識とは無関係に細い涙が流れていた。

 

 東京から帰り1年半・・ひたすら「良い嫁」になろうと毎日頑張って習慣化した家事を、ケンちゃんがいなくなった後も私は繰り返していた。

深野に私が居る理由だったケンちゃんがいなくなり、なぜ私はここに居るのかと問う毎日。お父さん、お母さんに「2階で休んでいなさい」と言われても、まるで夢遊病者のような姿で「嫁」の仕事をするのだ。

「良い嫁」でも「悪い嫁」でも、もうそんな事どうでもいい事なのに・・・。しかしその時の私にはお父さん、お母さんの立場や思いを考える、慮る心はなかった。

あとで思えば、お父さん、お母さんも町中、噂でいっぱいの中、息子の嫁はそれでもエプロンして望をおんぶして家事をして・・・。

やりきれなかったことだろう。

私の姿が二人を苦しめた事だろう。

でも、私はそうする事でケンちゃんのいない深野で、戸籍上の嫁の「居場所」に自分を置こうとしたのだろう。

自分が辛くない方を選ぶのは相手に何倍も辛い思いをさせてしまうことを配慮出来ぬ、身勝手な嫁だった。

 

 「大丈夫?元気?きっとそのうち帰って来るよ!一時の気の迷いよ!男としての遊びを知らないうちに学生結婚して、突然、男慣れした違うタイプの女性に会って惑わされているだけよ。そのうち目を醒まして帰って来るから頑張りなさい!」と誰もが言った。

それまで話をしたこともない人までが急に親しげに、にわか作りの同情と憐れみの表情と声で、誰もがそう言った。

 

 そうであるかも知れぬ。そうでないかも知れぬ。

 

心配をしてくれているような人もあれば、これからどうなるのだろうと高みの見物的に面白がっている人もいた。

誰が何と言おうと私は私の考えでこの事実に向かおうと思っていた。

「梓木の恥さらしになるから実家にもどれ!」

ケンちゃんがいなくなっても深野に嫁としている私に、木材業を継ぐ梓木の兄が言ってきた。

私は帰らなかった。

町中の噂になろうと、私の人生だった。

恥さらしであろうと、私と誠と望の3人の人生だった。

自分で選んだ人生だった。

息子の「不祥事」でお父さん、お母さんは身を隠すように辛そうにしている・・その上まだ離婚も何もしていない嫁までが実家に帰るなんて事をしたら、お父さん、お母さんはもっと辛い世間の目にさらされる・・・。

私達が駆け落ちした時も、同棲した時も、子供が出来た時も、「親」というだけでいろいろな噂や中傷に耐えてきたお父さんとお母さん。

今度は息子に別な女性が出来・・事を起こしたケンちゃんは悪く、嫁の私は可哀想だと“世間”は言い・・親としての責任のようなものを“世間の目”に感じ・・。

それまでの、地域や社会的な役職も全て辞任し、まるで自分が事を起こしたかのような毎日にいるのに・・。

恥さらしと言われようと、町中の人達に面白がられようと、そんなことにゆらいではいけないと思った。

お父さん、お母さんの立場、梓木の兄の立場、誰より幼い誠と望を考え、今は出る時ではなく、深野にお世話になりながらこれからを考えようと決心したのだ。

それは私もお父さん、お母さんもつらい事だった。

けれど今しばらくそこで佇み考える方を選んだ。

とにかく望が小さすぎる。

1歳になれば、保育所に預け、働く事が出来る。

今、深野を出る事はできない。

自分の心に従い決断しようと思った。

 

 

「ザ・ヒロ子」19  あん子(著)

カテゴリー: ザ・ヒロ子 — 2nd_house @ 9:57 AM

ケンちゃんが消えた

 

 E町に帰り1年がすぎた9月の事だった。

友達の結婚式に出席したまま、ケンちゃんが家に帰って来ない。

乗って行った車だけが車庫の前にもどっている。

結婚式が土曜日なので翌日は休みだからと、結婚式で一緒になったお友達の家にでも泊まったのだろうかと一日目はそのまま、月曜日までには帰ってくるだろうと待っていたが、帰って来ない。

不安になり、朝からケンちゃんの仲の良いお友達の家を一軒づつ探し歩いたが、どこにもいなく、誰も結婚式あとのケンちゃんを知る人もいなく・・・。

お父さんお母さん、梓木のみんなでケンちゃんを探した。

 

私は「ケンちゃん、何か事故にあって死んじゃったのかもしれない!お父さん!お願いします!警察に捜索願いを出して下さい!」

 

 3日間眠らず探し歩き、ケンちゃんの帰りを待ちボーッと玄関に立つ私は今にも倒れそうな姿だったのだろう、睦夫(むつお)兄さんが、そんな私を哀れみ「ヒロ子!頼むから家に入って少しでも休んでくれ!俺がきっとケンジをさがして連れて帰るから」と懇願した。

 

 警察が来た。短い尋問をされたあと、車についている指紋を取り、1時間ほどで帰って行った。

あとは連絡を待つだけだった。

 

・・長い時間がたった気がした。

けれど警察からも兄からも誰からも連絡がない。

 午前2時頃だったろうか、かすかに茶の間のドアを閉める音とお父さんのひそめた声がした。

私はすぐさま私達の部屋のある2階から急いで茶の間へ行き、ドアをノックした。

「ケンちゃん、見つかったのですか?」

「う・・うん・・。今日はもう遅いので明日話す」とお父さんは問いつめる私を遮るように寝室のドアを閉めた。

 どんなに、それ以上の事が聞きたくても、お父さんに逆らえなかった。そういう“立場”に私はいた。

朝をひたすら待った。やっと夜が明けお父さんに訳を聞いた。

「実は・・・ケンジはある女の部屋にいた。捜索願いを受けた警察官が見つけたのだ。ケンジに昨夜会って話をしたのだが、どうしても帰らないと言うのだ。少し時間をおけば落着きをとりもどすだろうととりあえず昨日はそのまま帰って来たのだが・・・。」

そうお父さんが言った。

 

 その女の人とは、いろいろなところへ二人で出かけ、町中の人が知っている事であり、知らないのは深野と梓木と私だけだった。

警察官さえ知っていて、捜索願いが出て真っ先に探しに行ったところが彼女のアパートだったそうだ。

 

 妹の私を心から可愛がってくれた睦夫(むつお)兄さんもケンちゃんに会い、「ヒロ子の、俺の妹のどこが悪いんだ!何が気にいらなくてこんなことをするのだ!」とケンちゃんになぐりかかったそうだ。

 さすがに兄も、その事実を、ケンちゃんがいなくり、ショックのあまり一睡もせず、ふらふらしながらやっと立っているような妹の私に「本当」を言えなかったのだろう。

 

 “訳ある”男と女の間で、情愛に溺れるあまり、帰るべき「時」を逸し、もう少し、もう少しと1日が過ぎ、2日が過ぎ・・気がついたら警察沙汰になっていて、引くに引けなくなった・・・あとになってケンちゃんから聞いた事だ。

 プライドってそんな時に使う言葉ではないかも知れぬが、男ケンちゃんのプライドがそうさせたのかも知れぬが、ケンちゃんにも妻の私にも、どうしてよいか分からぬ重大な事件となり・・・。

 

 会って話をしなければならないのはケンちゃんと私なのに、お父さん達ばかりがケンちゃんと話に行き、私に会わせてはくれなかった。

毎日毎日ケンちゃんに会いに行かせて下さいとお父さんに懇願した。

事が発覚して一週間が過ぎた頃だろうか・・・私はひとつの決心を胸に、彼女のアパートにいるケンちゃんを訪ねた。

 

ドアを開け部屋に入ると、二人で食べかけのお鍋のあとがそのまま小さなテーブルの上に・・・会わなくても、何も聞かなくてもそれだけで充分すぎるほど、今の「二人」が見えるようだった。

 カーテンで仕切った彼女の寝室から、彼女とケンちゃんが出て来た。

 

 私は初めて会うその女の人が、自分と同じようなタイプならもう一度頑張って見よう、そして違うタイプなら、あきらめよう・・事を知ったあと、一人の中で考えたことだった。

 冷静にではなく、生まれて3ヶ月の望(のぞむ)と、パパが誰より好きな3歳の誠を両腕に両膝に抱きしめながら、感情的ではあっても、それまでの私達を、ケンちゃんの愛を、私の愛を考えた結果だった。

 

 彼女とは、青年会議所の仲間と行く、当時「キャバレー」と言われたストリップショーなどがある夜のお店で知り合い、6月頃から急に親しくなったそうだ。

 彼女は黒髪を腰近くまで長くした、妖艶な感じの男好きするタイプの女性のように見えた。

ケンちゃんにぴったり寄り添い、ケンちゃんがタバコを手にするとすぐにライターで火をつけ、ケンちゃんの肩についた髪の毛を「あら!髪の毛」と言ってやさしくとってあげ・・・。

 

 どれもが、気がついても私には出来ないことだった。

ピーンと張詰めた沈黙が流れた。

突然、彼女が大声で泣き出した。というより喚きだした。

「ケンちゃん!ハッキリして!!この人を取るの?私を取るの?ワァーッ!!」彼女は彼女の部屋の入り口から一階に降りる階段の手すりのところまでを転げ回りながら、そう叫んだのだ。

びっくりした。あまりの唐突さに、あまりの激しさに私は驚いた。

そして「ケンちゃん、なんだか映画見ているみたいだね」と思わず口にした。

 

 背が高く怖い目をした彼女の同僚という女の人が、帰ろうとその階段を降りる私の背中に「こんな女!捨てられて当然だよ!」・・・そう言った。

後ろを振り向けないほど私は彼女の言葉に傷ついた。

涙があふれるのを出口までがまんするのがやっとだった。

「彼女ではなく彼女の同僚に何故こんな言葉を浴びせられなくてはいけないのだろう」

ポロポロ涙が流れた。

悔し涙なのか・・。

 

 そこにケンちゃんがいて、けれど、どんな時も私を守ってくれたケンちゃんはもういない事を知らされた涙なのか・・

悲しく、哀しかった・・・。

 

 

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