立教セカンドステージ生 blog

2012 年 2 月 7 日

私のバレンタイン・デー

カテゴリー: ザ・ヒロ子 — 2nd_house @ 11:30 AM

死ぬと言う事は息が止まると言うこと。

続いていた呼吸がスっと音もなく止まるのだ。16年を共に暮らした愛犬クー子の息が止まり私の胸にわずかに顔をすり寄せ天国へ逝ったのは平成8年2月14日、午後1時少し過ぎのことだった。

生きているクー子と死んだクー子・・その境界線をすっとまたぐかのような“一瞬”が心に残る。聖バレンタイン・デー、2月14日が来るたびに思い出す。

『マイスター・クー子大姉(だいし)』私がつけたクー子の戒名。

クー子は“ペット”ではなく犬の顔をした人間であり家族であり、私の“長女”だった。

夫のケンちゃんがいなくなった時も泣いた。母が死んだ時も兄が死んだ時もいっぱい泣いた。でもクー子が死んだ時は一番泣いた。まぶたが腫れて目が開けられない程、顔を上にあげなければ前が見えない程泣いた。4日間、死んだクー子を抱きしめ泣き続けた。

「今日も行けません・・どうしても行けません・・ワァ〜ン!」と泣きながら毎朝職場に電話をし、結局5日間仕事に行けなかった。(総務課文書厚生係の皆様、申し訳ありません。 私46歳)

いつまでも死んだクー子を抱きしめ身体から離そうとしない私に「部屋の中を暖かくしているとクー子の内臓や体が腐る」と友人達に言われ、2月という北海道の真冬に、家中の暖房を消し、スキーウェアを着て死んだクー子を抱きしめ泣き続けた。

親友の“サクタ”が、隣町のK町から同じ町に住む照美ちゃんと一緒にクー子が好きだったさんまの蒲焼き缶を持って“お通夜”に来てくれた。クー子と私の関係を知っている二人は生きているかのように眠るクー子に、そして傍で泣く私にもらい泣きしていた。

死ぬまで24時間点滴治療を受けていたせいなのかクー子の身体は人が亡くなった時のあの“冷たさ”はなく、何日経っても硬直もなく、まるで生きて眠っているように温かかった。柔らかかった。濡れタオルで毎日身体を拭いていたせいか全身の真っ黒な毛がピカピカ光っていた。

本当に“眠る”クー子。“眠るクー子を何枚も何枚も写真に撮った。レンズの中で、やわらかく温かいピカピカしたクー子が息だけ止めて眠っていた。

誰よりも私だけを見つめ16年間いつも私に寄り添ってくれたクー子。私が仕事から帰るのをじっと1人でひたすら待っていてくれたクー子。 “その日”もクー子は勤務先からお昼休みに帰宅する私をハーハー苦しそうに身体全部で息をしながら待っていてくれた。

宿便なのか何なのかお尻と太く腫れ上がった後ろ足の回り中、くすんだピンク色のゼリーのようなものが大きな水たまりのようにいっぱい溢れ出ていた。

何日いや何ヶ月分かの出なかった、出せなかった便なのだろうか・・そのゼリーのような固まりをきれいに拭きとりクー子を抱きしめる。酸素ボンベを持って飛んで来てくれたいつもの吉田獣医さんがクー子の口元へ酸素マスクを。クー子は嫌がり、少し顔をそらし私の腕のなかで『遅・・かった・・ね・・。やっと・・帰って・・きて・・くれたね・・待って・・いたよ』

いつもの優しい視線で私の目を見、かすかに弱々しく頬をすりよせ・・スッと息が止まった。

どんなにか長かっただろう私の帰りを命がけで待ち、私の腕の中で最期の生きるクー子を見せて死んでいった。

クー子は死んだ。クー子が死んだ。

普通ではない私の泣く姿に獣医さんは驚き、後追い自殺でもしたら大変と私の近しい友人に連絡をしたそうだ。連絡を受けた“かっこちゃん”はすぐに車で駆けつけ1時間ほど傍に居てくれたそうだが、自らを失っていた私の記憶にはない。

おしっこが出せなくなったクー子の膀胱に挿入されていた長い長いカテーテル・・痛かっただろうに・・こんなにこんなに長い管を何ヶ月も入れられ・・痛かっただろうに・・そのカテーテルの長さに涙が溢れ出た。

私が「私」に返ったのは、もう窓の外が薄暗い午後4時すぎ、私を心配した兄のお嫁さんが鳴らした玄関のチャイムの音を聞いた時だった。

クー子の最期に誠と望の声を聞かせようと東京にいる二人に電話をした。今にも死にそうなクー子の耳もとに誠と望の声を聞かせた。一緒に生きてきた大好きな誠と望の声を。

受話器の向こうから「クー子、がんばれ!クー子・・クー子・・」誠と望の声は泣いているようにも聞こえた。誠と望の顔を思い浮かべたかのようなクー子の潤んだ目・・そのあとすぐにかすかに微笑むように私の腕の中でクー子は息を止めた。死んでいった。

・・続く・・

2012 年 1 月 26 日

セカンド授業講義録(2011年後期)1月分

カテゴリー: 2011後期授業 — 2nd_house @ 9:54 PM

2012年1月19日、
立花先生、最後の授業「現代社会論」が終わりました。
最後の講義録の機会に恵まれましたこと
とても嬉しく思っています。

5年、10年、15年・・・これから先
宇宙がどれくらい身近なものになっているのか、
日本を含む世界がどうなっているのか、
科学がどこまで進んでいるのか、
未来の現代社会にはどんなトピックが生まれているのでしょうか。
その折々に、又立花先生の論評を拝読したいです。
先生、ずっとずっとお元気でいらして下さいね。
広範囲に渡って、
難しいこともわかりやすく、本当にたくさんのことを教えていただきました。
心から感謝しています。有難うございました。

受講生の皆さま、お疲れ様でした。、
そして、授業の準備、お手伝いなど陰で支えて下さった
スタッフの皆さま大変お世話になりました。

「学びの情熱、尽きることなく」
出来ることなら、こらからも脳の活性化に務めたいと思います。
講義録を覗いて下さった皆さまに感謝の気持ちを込めながら
このページを終わりたいと思います。

2012年1月19日(木)現代社会論⑭
2012年1月12日(木)現代社会論⑬

2012 年 1 月 24 日

「ザ・ヒロ子」目次

カテゴリー: ザ・ヒロ子 — 2nd_house @ 11:10 AM

目次

はじめに

母ちゃん

3 私を変えた恩師

4 母との確執

チビダンプ

兄の忘れられない言葉

7 母について

8 高校最後の思い出

「芸術家」めざして!

10 私の普通は世の異常

11 大金持ちの大家さん

12「深野ケンジ」くん、まずは“友達”から

13「駆け落ち」のち「家出」

14「はじめてのアルバイト」

15 パンダとパトカー

16 いつもと違う“食中毒”

17“できちゃった婚”で母になる

18 ケンちゃんの後継ぎ・“嫁”の頑張り

19 ケンちゃんが消えた

20 一人になって

21 親孝行はできたけど

22 マコの叫び

23 ケンちゃんのいない「深野家」で

24 一冊の本と別れ

25 22歳の別れ

26「深野」の立場と私達

27 神様の粋な問いかけ

28 息子

29 怖くて聞けないこと

30 そして今私は

31 あとがき

32 遅くなった挨拶とお礼

33 もう一人の兄の死(1)

34 私のバレンタイン・デー

2011 年 12 月 6 日

セカンド授業講義録(2011年後期)12月分

カテゴリー: 2011後期授業 — 2nd_house @ 9:22 PM

今年も残すところあと僅かとなりました。
講義録を書きながら、自分の知らなさ加減にため息、
その繰り返しの一年でした。
それでも気持ちはいつも何か熱くなっていました。
そんな立花先生の授業、いよいよカウントダウンですね。
世界も日本も大変な状況の中、
今なお学べる環境であることに感謝しつつ
今年を終えたいと思います。
ありがとうございました。

2011年12月22日(木)現代社会論⑫
2011年12月15日(木)現代社会論⑪
2011年12月08日(木)現代社会論⑩
2011年12月01日(木)現代社会論⑨

2011 年 11 月 16 日

セカンド授業講義録(2011年後期)11月分

カテゴリー: 2011後期授業 — 2nd_house @ 10:05 PM

17日分のアップが遅くなり申し訳ありませんでした。
24日は私が授業を欠席したため、A・Kさんが担当して下さいました。
有難うございました。

2011年11月24日(木)現代社会論⑧
2011年11月17日(木)現代社会論⑦
2011年11月10日(木)現代社会論⑥

2011 年 10 月 11 日

セカンド授業講義録(2011年後期)10月分

カテゴリー: 2011後期授業 — 2nd_house @ 10:40 PM

2011年10月27日(木)現代社会論⑤
2011年10月20日(木)現代社会論④
2011年10月13日(木)現代社会論③
2011年10月06日(木)現代社会論②

2011 年 10 月 4 日

セカンド授業講義録(2011年後期)9月分

カテゴリー: 2011後期授業 — 2nd_house @ 6:18 AM

皆さま、こんにちは。
後期も講義録の担当をさせていただくことになりました。

現代社会論、第1回目の授業初めに、
「学生に教えるのは、皆さん4期生が最後になります」と
先生は淡々とおっしゃいました。
一瞬、空気の流れが止まったようでした。

心して、授業(講義録)に臨みたいと思います。
どうぞよろしくお願い致します。

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2011年9月29日(木) 現代社会論①

2011 年 7 月 25 日

セカンド授業講義録(2011年前期)7月分

カテゴリー: 2011年前期授業 — 2nd_house @ 9:15 PM

皆様、こんにちは。
縁があり、講義録を担当させていただきましたF・Kです。
至らない箇所も多々あったかと思いますが、
このページを見守って下さっていた皆様、有難うございます。

講義録を書きながら、時に悩み、行きつ戻りつしながら
又、嬉しくなったり感動したり、本当にたくさんのことを
勉強させていただきました。
長時間の講義、先生に感謝の気持ちでいっぱいです。
スタッフの皆様も有難うございました。

セカンドステージ大学の仲間、
それぞれ年齢もバックグラウンドも違いますが、
同じ60兆個の細胞をもっている者同士、
そして、この歴史の中に生まれてきた奇跡を
共有している者同士、これからもどうぞ
よろしくお願い致します^^

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以下、7月の講義録です。

2011/07/19(火) 5時限 昭和史の検証⑪

2011/07/19(火) 4時限 先端科学・技術論⑪

2011/07/12(火) 5時限 昭和史の検証⑩

2011/07/12(火) 4時限 先端科学・技術論⑩

2011/07/09(土) 5時限 昭和史の検証⑨(07/18差し替え)    ※補講

2011/07/09(土) 4時限 先端科学・技術論⑨  ※補講

2011/07/05(火) 5時限 昭和史の検証⑧

2011/07/05(火) 4時限 先端科学・技術論⑧

2011 年 6 月 20 日

セカンド授業講義録(2011年前期)6月分

カテゴリー: 2011年前期授業 — 2nd_house @ 1:03 AM

6月の講義録です。

2011/06/28(火) 5時限 昭和史の検証⑦

2011/06/28(火) 4時限 先端科学・技術論⑦

2011/06/21(火) 5時限 昭和史の検証⑥

2011/06/21(火) 4時限 先端科学・技術論⑥

2011/06/14(火) 5時限 昭和史の検証⑤

2011/06/14(火) 4時限 先端科学・技術論⑤

2011 年 6 月 13 日

レジメ

カテゴリー: 未分類 — 2nd_house @ 9:19 PM

毎週レジメをありがとうございます。

2011 年 6 月 6 日

セカンド授業講義録(2011年5月分)

カテゴリー: 2011年前期授業 — 2nd_house @ 2:44 PM

講義録は以下のリンクから閲覧できます。

2011/05/31(火)5時限 昭和史の検証④

2011/05/31(火)4時限 先端科学・技術論④

2011/05/24(火)5時限 昭和史の検証③(07/18差し替え)

2011/05/24(火)4時限 先端科学・技術論③

2011/05/17(火)5時限 昭和史の検証②

2011/05/17(火)4時限 先端科学・技術論②

2011/05/10(火)5時限 昭和史の検証①

2011/05/10(火)4時限 先端科学・情報論①

2010 年 5 月 17 日

「ザ・ヒロ子」33  あん子(著)

カテゴリー: ザ・ヒロ子 — 2nd_house @ 5:02 PM

2010年3月23日立教セカンドステージ大学専攻科を無事卒業しました。

「ママは“恥”の概念がヨーロッパ的だね」

長男誠が高校生の時、そう言った。

意味を聞くこともなく時折私の中でその一言を思い出すことがあったが、多分誠の言う意味は、人の『恥』と思う対象は「他者」か「己」のどちらかであり日本人の恥の対象が己ではなく他者が多い中、私は・・・そう思っている。

明治時代の“ハイカラさん”スタイル、真っ赤な矢がすり模様の着物に袴姿で卒業式に出席した私は、誠の一言はこういう姿をする“私”を言うのだろう・・60歳の“ハイカラさん”姿で、他人の視線など物ともせず山手線に乗り高田馬場駅(着付けをしてもらった美容院が西早稲田)から池袋駅までを地下街を闊歩しながら、そんな誠の一言を思い出していた。

さて2月に再開しますので是非また読んで下さいと言いながら3月も過ぎ4月も過ぎ5月になってしまいました。もう「ザ・ヒロ子」の事など忘れてしまったかも知れませんが、また「私」を書き始めたいと思います。

どうかよろしくお願いいたします。

2010年5月10日  あん子

第33章

「もう一人の兄の死」⑴

5月1日、私にとってメーデーの日ではなく平成13年9月25日、自分の命をお金に代えて死んでいった睦夫兄さんの誕生日だ。

生きていたら65歳・・あの突然の死から9年が過ぎる。

平成13年9月25日秋分の日と土日がつながり3連休の翌日の月曜日だった。連休明けの仕事の始まりの日、午前6時40分、電話のベルがなった。

誰だろう?こんなに早く・・何かあったのだろうか!!

受話器を取る。ほとんど電話などかけてはこない私の家のすぐ前に住む同級生のM君だ。なんだかいつもより静かな声。彼は私と同じE町の消防署に勤務しその朝は前日からの勤務で泊まりの日だったそうだ。

受話器の向こうでM君が言う。

「むっちゃん(兄はみんなからこう呼ばれていた)が死んだ。自殺だ。今警察が来ていろいろ調べている。」

「えっ?むっちゃんが死んだ?自殺をした?死んじゃった?死んでないでしょ?生きているよね?」

「・・・・いや・・もうだめだ・・」

身体中が震えだし、しばらく会っていないむっちゃんの顔が浮かんできた。

「とにかくむっちゃんの会社に今すぐ行くといい。すぐにだ・・」

私は訳がわからないまま、札幌に住む姉と兄に知らせ、むっちゃんの会社へ車で走った。

信じられない!なぜむっちゃんが自殺なのだ。それももう死んでしまっていると言う。とにかく行かなければ・・見るまでは・・。

むっちゃんの会社が見えてきた。午前7時前だというのに会社の広い駐車場には車が何台も雑然と置かれ、玄関前にはパトカーが2台止まっていた。

パトカーと会社の周りの騒然とした様子が、M君からの知らせが本当の事だったことを現していた。

むっちゃんは社長室のソファの上で、まるでうたた寝でもしているかのように座って死んでいたそうだ。第一発見者、早番の従業員Hさんがそう言っていた。

車の排気ガスを吸い意識が朦朧とし始めてから死ぬまで書いていたのか、いつものむっちゃんらしい大きな堂々とした字ではなく何を書いたのか読めないほどの乱れた字の遺書が、お世話になった方達への謝罪の遺書、東京の大学に通う当時19歳の最愛の一人娘へ会いたい、会いたい、会いたいと何度も何枚も書いた遺書、姉と私宛に書かれた遺書などがテーブルの上に散乱していたと言う。きちんとそろえ置かれた飲み干しの缶ビール2缶の横に。

死にたくはなかったのだ・・。

むっちゃんは死にたくはなかったはずだ・・。

むっちゃんの遺書は“生”に区切りをつけた覚悟ある遺書ではなく、書く事によって“生”にすがり、自らを殺そうとしている自分の意思や、死ぬ怖さに負けそうな自分を納得させ、“死に恥”かいても“生き恥”はかきたくなかったのだろうむっちゃんの生き方は、どうしても死ななければならず、死ぬ意外家族や会社を守ることは出来ず(自分にかけた多額の保険金で会社を救おうとした)そういう“意味”があっての“理由”があっての自殺だから許せと懸命に自らに言い聞かせているような遺書・・なぜだか私にはそんなむっちゃんの隠れて見えない思いがそれらの遺書に見える気がした。

死にたくはなかったはずだ・・。

すぐさま発見者Hさんが救急車を呼び、同級生のM君がたまたま職務で救急車に乗りむっちゃんの会社へ。

自殺の場合は警察の現場検証が必要とかで、むっちゃんがいる社長室は立ち入り禁止、身内でも入れてはもらえなかった。

むっちゃんは自分の会社の狭い小さな社長室の隙間という隙間にガムテープで空気が漏れないよう目張りをし、会社の外に駐車した自分の車の排気ガスを長いホースをつけて・・。

部屋に目張りをしている時だろうか、何かに引っ掛けたような血が滲んだ新しい傷のあとがむっちゃんの左小指にあったのを憶えている。

どんな思いで部屋中の隙間を目張りしたのだろう。

どんな思いでホースを部屋の中まで繋げたのだろう。

シュウシュウと音がしたであろう車の排気ガスが部屋中に充満してくる中、ソファーに座り一人真夜中に遺書を書いていたのか・・。

寂しく心細い真夜中・・。

夜明け前の真夜中は、この世の全ての“音”も“光”も消えてしまったように暗くて寂しいものだ。

そんな真夜中に一人遺書を書き・・心に浮かぶ一人一人に別れを告げていたのか。

気を失うまで・・死にたくはない心を押し込めながら・・。

『ねえちゃん、宏子

俺は、先に行くけど

親父や母さんの所へ行く。

E(町名)では、はずかしいけど仕方がないんだ

ねえちゃん、兄貴(姉ちゃんの御主人)によろしくな、感謝している。

俺達だめだったな   今迄、考えると   』

大きかったり小さかったり曲がっていたり、乱れた字がここで止まっていた。

ふとペンを置き自分が生まれてからの56年間を顧みたのか、それとも母が生きていた頃の私達兄弟みんなが仲良しだった頃のそれぞれを思い出したのだろうか・・命を捨てて救おうとした『(株)NA(エヌエー)フーズ』と印刷された会社の罫紙に、泣いているような字が、弱々しくかすれた字がぐにゃぐにゃと並び姉と私への遺書はここで終わっていた。

(むっちゃんは昔から私の「ヒロ子」をなぜか父が名付けようとした「宏子」  と書く)

午前10時を過ぎていた。自殺をしたむっちゃんは、私達身内に会わせてくれる事もなく今度は病院で検死を受けるためとE町から車で1時間あまりかかる北見市の日赤病院へ警察の車で連れて行かれた。

自殺をした部屋から警察の車に運ばれるタンカーの上のむっちゃんは、薄汚れたオレンジ色の冷たく固そうな毛布に、人間ではない何かの“物”のように顔から足の先までをひとくくりに覆われ、頭の毛すら見る事は出来なかった。

気がつくと会社の中はたくさんの従業員や警察官や刑事みたいな人や大勢の人が右往左往し、ごった返ししていた。

私は見知らぬ人々がめちゃくちゃに動き廻る様子を無声映画を見ているかのように事務室の片隅でボーッと見るともなく眺めていた。

北見の病院での検死は時間がかかり検死を終えて帰って来るむっちゃんを寝かせる蒲団の用意やいろいろな準備をしなくてはならないと言われ、私は一粒の涙も流さずただ訳がわからないまま、さっきタンカーに載せられていった毛布の“かたまり”は本当にむっちゃんなのだろうか・・そんな思いばかりが頭の中をグルグル回っていた。

蒲団を取りに私の自宅へ戻り、お客様用の新品の可愛いチューリップ模様の肌掛けや、シルクでとても暖かそうなやわらかくきれいなオフホワイト色の毛布など、帰って来たむっちゃんが気持よく暖かく寝られそうな新しい蒲団一式を車に積み、自宅から10分程のむっちゃんの家に向かった。

次から次へと突然のむっちゃんの訃報にたくさんの人々が訪ねて来た。

奥さんの弘子さんは(字は違うが義姉も「梓木弘子」と言い同姓同名だった)あちこちからの電話、銀行などの支払いの用事等で呼び出され席を立つことが多く、実の妹と言う理由で葬儀の手伝いの方の聞いてくる事に、人が亡くなった時すべき事なのだろう些細な事や様々な質問に私が答えなければならなかった。

お葬式はセレモニー、お葬式は町内会の日常の「行事」であることを改めて知る思いがした。手際よく事が流れている。

私達死んだ者の身内はセレモニーの中の“一役者”でありセレモニーをしていただく立場でもあった。

誰のための誰に向けてのセレモニ〜なのだろう・・。

一人そっと、いやそれが駄目ならせめて矢継ぎ早に無理矢理常識の世界に引き込まないで・・何かを聞かれる度に私はそう感じた。

仕方はないが黒のエプロンをした手伝いの人達は誰がどう死んでもまずは生きている人達のご飯の用意をし、そのような手伝いの方がいるからこそお葬式をしてもらう事も出来るのだろうが、むっちゃんの帰りを心待ちするその時の私には、そういう人の世のあたりまえのしきたりが哀しくてせつなくてならなかった。

けれど・・表だけは気丈にしていた。

姉や兄達は車で札幌からむっちゃんの家に向かっている途中であり、むっちゃんの血を分けた肉親は私一人だったからだ。

むっちゃんを守らなくては。

むっちゃんがむっちゃんの家に帰ってきたのは夕方4時くらいだったろうか。

腹がたった。悲しかった。あまりにもむっちゃんがかわいそうだった。

いくら自殺したからとは言え、病院の検死に行く前は洋服も着ていただろうに、下着も何も脱がされたまま裸のまま、連れて行かれた時のあの薄汚れたオレンジ色の毛布にまるで“ゴミ”のように包まれ帰宅したのだ。

初めて涙がでた。

可哀想で悔しくて悲しくてどうにもならなくて涙が出た。

むっちゃん、恥ずかしかったね。こんな丸裸にされて・・

むっちゃん恥ずかしかったね。寒かったね。つらかったね。悔しくて可哀想で、男気の強いシャイなむっちゃんが丸裸・・ポトポトむっちゃんの顔に手に肩に涙が落ちていった。

初めて見た兄むっちゃんの身体はとてもきれいだった。足なども毛深くはなく兄として知っている外では誰よりも威勢のいいむっちゃんの身体は、外から見るより華奢でやわらかくどこか寂しそうな男の身体の線をしていた。

むっちゃんの身体にそっと触れた。

警察の人や検死をする人達に、人格も何もない“物”のように乱暴に触られてきただろうむっちゃんの身体についた見えない見知らぬ人達の手あとをこすり落としたかった。

消しゴムのようにゴシゴシ消してあげたかったかった。消したかった。

そんな思いを心に、そぉっとむっちゃんの身体を拭いた。

むっちゃんが遺書の中に指命した生前お世話になりお金の援助や銀行の保証人をしてくれていた古いつきあいの葬儀屋の“かっちゃん”が祭壇や白装束一式を持ってきた。

が白い着物を着せる間もなくお坊さんが枕経をあげに来てしまい、硬直したむっちゃんの両手を胸の上にひとつに合わせるのが精一杯で、とりあえず身体に白い着物をかけその上に蒲団をかけてお経が始まった。

(硬直してしまったむっちゃんの身体に着物を着せることが出来ず結局最後までそのままになってしまった。むっちゃんが寒がっているのではないだろうかと今でも時折思い出す)

むっちゃんの顔は、死んで何時間も経っているのに、ほんのりピンク色で本当にいつもより活き活きとしていて気持よく眠っているようだった。

死んだら人は蝋人形のように青白く冷たい肌になるはずなのに、むっちゃんの顔色はすこぶる良くどんなに時間が過ぎても変わらなかった。(ガス自殺の特徴なのだそうだ)

私はかわいいチューリップ模様の掛け布団の中で恥ずかしそうに“寝ている”むっちゃんに、いつもかけていた黒ぶちメガネをつけてみた。

いつものむっちゃんになった。

「人生 ノーサイド」(人生に敵味方なし)が口ぐせ、得意な歌は「マイウェイ」、いくつになっても夢を語り熱き心を持つ56歳には見えぬ“青年“のような真っ黒な毛がピンと立ったスポーツ刈りのラガーマン、むっちゃんがいた。

目だけを閉じ、「よオ!元気か」なんて言い出しそうなむっちゃんがいた。

そのむっちゃんの横で、何も言わずに死んでいった“眠る”むっちゃんに私は聞いた・・考えた・・。

なぜむっちゃんは“死”を選んだのだろう。

なぜむっちゃんは自殺をしなければならなかったのだろう。

むっちゃんの言う“はずかしい”とは、むっちゃんが思う「恥」とは何を言うのだろう。

「仕方がないんだ」 むっちゃんは言う。

本当に「仕方」のない事だったのだろうか。

「俺達だめだったよな・・・」

「俺」ではなく「俺達」と言っているむっちゃんの思いは、私達兄弟の何が駄目だと言いたかったのだろうか。

そのあとに書こうとした事は何だったのだろう。

アメリカの文化人類学者、ベネディクトが書いた「菊と刀」の“日本人”みたいなむっちゃんは、まるで昔の“特攻隊”のように “御国”(家族・会社)のためと無理矢理死んでいった。

武家社会の“侍”の切腹みたいに思い切り死んでいった。

むっちゃんの死は、何を意味するのだろう?

むっちゃんは何に“負けて”死んだのだろう?

むっちゃんは何から“逃げよう”として死を選んだのだろう?

会社の倒産は“死”と同列?“死”に至ること?

幼い頃“なぜなぜ人間”とむっちゃんにからかわれた私が、答えてくれるはずもない死んだむっちゃんにわからないわからないと問い続けた・・・。

そして5日後、むっちゃんの死を“嘘”や“表面”ではなく本当に悲しいと別れを惜しんでくれた千人をも超える参列者に見送られむっちゃんは逝った。

センセーショナルな報道をも巻き込む、悲しい“盛大な”お葬式だった。

2010 年 1 月 13 日

「ザ・ヒロ子」32  あん子(著)

カテゴリー: ザ・ヒロ子 — 2nd_house @ 11:09 AM

「遅くなった挨拶とお礼」

 

 人は誰でも一冊の本が書ける。生きた軌跡を書く「自分史」である。何かの本に書いてあった。

私は50歳くらいの時から、それまでの自分を振り返り生きた時間の分だけ積み上げられたさまざまな出来事やその時々の思いを整理したい、いつか自分史を書きたい、そう思っていた。

2008年4月立教セカンドステージ大学に入学、履修届のカリキュラムに「現代史の中の自分史」を見つけ私は真っ先に選んだ。

受講生は50名くらい。私が立花隆先生が有名なジャーナリストであることを知ったのは授業を受けしばらくしてからのことだった。

ゼミ生との飲み会に参加した帰り道、池袋東口商店街の横断歩道を並んで歩く立花先生に私は聞いた。

「先生は本が好きですか?これまでに一番すばらしいと思った一冊の本は何ですか?」

「本は好きだよ!沢山あって一冊だけ選ぶことはできないな〜」といつものやさしい目と微笑みでバカな私の質問に真夏の短パン姿の先生はきちんと答えてくれた。

あとで膨大な著書のある有名な先生と知らされクラスメートのみんなに「誰になんてことを聞いたの?」とあきれられた。

 

 日本経済新聞の『私の履歴書』を参考にして書きなさい・・「自分史」の授業が始まった。まずは生まれてから小学校に入学するまでを書き始めた。

私の心のステージに幼い頃の自分が現れる。

そう、もう50年以上も前の私に引き戻される心で書き始めた。

驚いた。私は記憶は歳と共に薄れてゆくもの、ましてやその時の感情や心の動きなど消え失せているものと思っていた。驚いた。

思い返すひとつひとつの出来事にその時の感情がそのままにくっついていて、あたかも「その時」に私が居るかのように記憶の消えてはいない私の心を観た。

驚いた。

小学生の私を書く時は小学生の私が感じた心を書き、高校生の私は高校生の私が感じた心を書いた。まるで自分が歩いた人生の道をもう一度生き始めるかのように・・。

3回目の授業の時だった。

先生が自分史の年表作りを課題に出した。自分がどういう時代に生まれ、時代の何に影響を受けてきたのか、記憶を引き出し客観的にいろいろな事が見えて来る自分だけの年表を書きなさいと。

そうか、この授業は「現代史の中の自分史」なのだ。

みんなすごい年表を書いてきた。自分が生まれた時の世界の出来事・日本の出来事・家庭の出来事・影響をうけた人の年表などなど世界、いや宇宙的な観点から見る自分そして自分の人生・・なるほど、そういう目で自分を、自分の人生を確認するのか、そうやって書くものなのか・・これぞ「現代史の中の自分史」、そう教えられた。

が、私は年表が書けなかった。

なぜだか私は昔から年表とか全く苦手で・・書こうとはしたが書けずにいた。年表を書かないと次へは行けないと思い、結局授業は受けていたが毎週火曜日までに提出しなくてはならない原稿を私は出さなく、いや出せなくなった。

「落ちこぼれの梓木で〜す!」私は書けない自分をうそぶいた。

ある日の授業の終わり、他の生徒の作った年表を“どうしてこんな年表が作れるのだろう”とため息まじりに私は見ていた。

教壇の上で資料の後片付けをする立花先生に思い切って私は聞いた

「先生!年表どうしても書けないのですが、書かなくちゃだめですか?」

「書けなきゃいいんだよ。君の書けることを書きたいように書けばいいんだよ!」先生はそう答えて下さった。

年表書かなくても続きを書いていいんだ。やった〜!私は再び書き始めた。

どんどん自分を書いた。“爆発”した!

日本経済新聞を参考にとか、年表を作り客観的に自分を見るとか、そんなこと何もかも忘れ私を書いた。私の心を夢中で書いた。

シラバスには『個人的なことを書くので他人に見られたくないと思う人は履修しないで下さい』とあるがそんなこともおかいまいなしだ。

今書かなければ2度と書けなくなくなる。こんなチャンスはない。

私はそう思い自分を書いた。鮮明に残るその時々の自分の心を書いた。

私の人生すごいでしょ!私頑張ったでしょ!まるでそうとでも言いたげな虚栄心の固まりの人間と思われるかも知れない。

けれど私は自分に向かって私の心をそのままに書いただけであり、整理できずにいた私の心を書いただけであり、自分の心を書き留めておきたいと思っただけだ。

自分史を書くために授業を受けたが、私は“授業の提出物”としては書かなかった。

書くなら本気で書きたい、何もかもを心のままに書きたいと思ったのだ。

 

7月中旬、授業終了。出来ていない人は夏休み明けに提出のこと。

なまけものの私は授業が終わるとまた書かなくなった。夏休みが明け、9月が過ぎても提出はしなかった。

何回かの催促はあったが、それでも出さず、ある日のこと、とうとう未提出者が私1人だけとなり『出来ている分だけで良いので11月12日午後2時までに必ず提出して下さい』という最後通告がきた。

大変だ!!何とか書きためていたものを整理し、目次をつけ、後書き、前書き、今の自分にやっと繋げ11月12日午後3時提出した。

自分が怠惰なだけの理由なのに、まだまだ書ききれてはいない未完の自分史が情けなかった。

立花先生や多くの方達にこれだけ迷惑をかけながら、やっと提出した私なのに、バカな私は提出の時こんなコメントをつけた。

「未完のままですが提出いたします。きちんとまとめ完成した自分史が出来ましたら再度読んで下さいますか?」

期限後4ヶ月もの長い間提出もせず迷惑をかけた私に、こんな返事が返ってきた。

「完成品、いつまでもお待ちします。」と。

あの最後通告がなければ、4ヶ月も遅れて提出する私を受け入れて下さる懐深い大きな心がなければ私の自分史は今もなお途中のままに終わっていたことだろう。ただただ感謝の思いでいっぱいだ。今もなお、その時以上に。

 

 授業に携わったある人からブログに載せてみてはと話をいただいたのは昨年4月のことだった。

まだまだ仕事の中の私、亡くした親友のこと、死んだもう一人の兄のこと、息子達のこと、昔裕福だった梓木家の没落のこと、書きたい事がいっぱいあった。

けれど授業もなく提出期限もないことで心入れて書くこともなく、ただ思いだけが“もっと書きたい”・・そう思うだけだった。

 

 「自分史」をブログに?自分史を他人に読んでもらう?

それはどういうことか・・。「自分史」とは何か・・。

私が私のために書いた自分史、他人に読んでもらうことを意識して書いたものではない私の自分史。

にもかかわらず、なぜ私は自分史をブログに載せるのか。私の人生を。

考えていた・・。

 

 月日はどんどん過ぎ去り2009年12月。

私の心が動いた。

もうすぐ卒業。やらないで後悔するよりやって後悔しよう!

なぜそうするのか、したいのか、わからなきゃわからないままでいい。

 

 全く文章など書いた事のない日記のような私の自分史を他人が読んでくれるのだろうか。読むに耐えうる文章、内容なのか。生きてきた途中での出来事と私の心を書いただけの自分史が。

けれどとにかくやってみよう。やってみたい。

中傷、誹謗、笑われる事をも覚悟しよう。

 

 2009年12月13日、自分史に書いた方々に断りもせず、読んで下さる方への始まりの挨拶もせず、私の自分史「ザ・ヒロ子」がブログデビューした。

大勢多数の1人の人生など他人にはどうでも良いこと、文章のきまりも何も知らない拙い文章、秩序なく混沌と書いた私の自分史。

不安だった・・。

けれどそんな不安をよそに私の自分史を読んで下さる方がいた。

私の自分史につきあって下さり、書ききれていないもどかしい拙い文章から私の思いを深く読みとって下さる読者がいた。

たくさんの方から真面目な誠実なコメント、手紙、メールが届いた。

ありがとうございます。心全部で私はそう思った。

読者の方は読み続けて下さり、その時々の感想まで下さった。

うれしかった。読者からのそれぞれの思いを深く受け取った。

心から感謝した。

 

 年が明け2010年1月5日、最後の章(30章)がブログに載った。

書いた私は、これが最後の章、いつになく1人の読者のような思いで読んだ。

うまくは言えない。が、ある寂しさが心をよぎる気がした。

「ああ、これでこの章で私の人生が、心にしまってきた私の人生が私から離れていく・・」何かが終わったけだるさのような心が、よぎった気がした。

 

・・・そのあとだ。私の中から何かしら突き上げてきた。

書きたい!もっともっと書きたい!サイダーの小さな泡つぶのように現れては消え、消えては現れるこの私の心を書きたい!

書く事が自分へのカタルシス、書く事の意味、書くことの大切さ。

そうだったのか・・。

ブログを進めて下さった方の思いに、この時初めて私は気づかされたように思った。

その方の思いはきっとブログをきっかけにして自分を追い込み、とにかく書きなさい、そう私に言いたかったのではないだろうか。

書いて書いて書き続けなさい。誰のためでもないあなた自身のために・・そう私に教えたかったのではないだろうかと。

やっと今私は、本気で自分史を書こうと思うところに来れたように思う。

書いて書いて心を書いて「梓木ヒロ子」という大勢多数の1人の女を、人間を、「ザ・ヒロ子」を死ぬまで書いていこう。生ききろう。

今、私は心からそう思う。

自分史・・Making of myself・・。

 

読者の皆様へ

 私は今、在学しているセカンドステージ大学の卒業間近となり修了論文の完成めざして頑張っています。そのため「ザ・ヒロ子」の続きは少しの間お休みさせていただき2月からまた再開したいと思っています。

 この1ヶ月間、最後まで拙い私の自分史につきあい読んで下さった読者の皆様、そしてたくさんのコメント、手紙、メールを下さった「かっちゃん」「カンコさん」「小吉くん」「札幌のよっちゃん」「惠子さん」「芳枝さん」「阿美さん」「篤姫さん」「ときこさん」「京子さん」「めえさん」「舞さん」「イチカワさん」「道子さん」「小オニさん」「ジャンボなシバタさん」「松っつあん」「悦ちゃん」「ますみちゃん」「のっちゃん」、セカンドステージ大学クラスメートの皆様、セカンドステージ大学本科修了生の皆様、セカンドステージ事務の皆様、ブログに載せて下さった立花事務所の皆様、作業をして下さったSマネージャー、私を心から応援して下さる皆様、みんなみんな本当に本当にありがとうございます。

2月再開の次回からもまたおつきあい下さるよう、読んで下さるようよろしくお願いいたします。

 

                         2010年1月11日

                          立教セカンドステージ大学専攻科 あん子

 

2010 年 1 月 8 日

「ザ・ヒロ子」31  あん子(著)

カテゴリー: ザ・ヒロ子 — 2nd_house @ 11:50 AM

あとがき

ギリシア語では時間の概念をクロノスとカイロスに区別する。

河の流れのように過ぎ去っていく日常的な時間がクロノス、二度と来ない決定的な瞬間がカイロス。

私が生きたと言えるのは結婚、出産、離婚、いわゆる人生の“大イベント”を終えてから、つまり25歳からの一人で歩き始めた時が私の人生の出発点のように思う。

30代は“大人の十代”という歌詞がある。59歳の私は“大人の30代”の終わり。

孟子曰く、「30にして立つ」・・・私は、やっと立ったのだ。

振り返れば、実にクロノス的に事を起こし、それらの事後にカイロスを、「決定的な瞬間」を巻き戻すかのように、なぞるように、自分のしてきた様々な事への責任とその意味に私は生きてきたように思う。

「自分史」、今ある私と言う人間を作ってくれた歴史・・・結婚をし離婚をしシングルマザーを生きて来たというどこにでもある話。

けれど大切な大切なこれまでの私の歴史。

私はとにかく生きてきた。私という人間を生きてきた。

昨年3月、30年勤めた北海道の小さな町役場を早期退職、学ぶ生活をめざして、一人上京した。

生きるエネルギーを自分だけに使いたい!消耗したい!今が“その時”と、それまでの全てを捨てて私は東京に自分を移動させた。

思えば私という歴史の原点を作った東京・・挑戦となるか、危機となるか。

失うものはあるけれど、生きる事に不必要な諸々から開放され、その分の大きなエネルギーを、学ぶことに、知ることに、見ることに、自分だけに使いたいと思った。

安定した日常は安心だが、倦怠と怠惰を心に生む。

保身のための仮面を捨て、失敗しないようにと身構える事もやめ、自分を何もない何も見えないまっさらな所に置き、歩かせてみたい。

これまでの全てが私の意志で起こした事実に違いなく、自ら作った事実の「山」を登り越えてきたような私だが、59歳になりやっと人間として一人立ちした自分を新しい場所で見知らぬ場所で歩かせてみたくなったのだ。

生かせてみたいと思ったのだ。

何ができるのか、何をするのか、どう生きてゆくのかを私自身が見たいと思った。

自分が何を大切に生きたのか生きようとした人間なのかを見たかった。

私の人生の最後に。

何というわがままな贅沢な人生をいただいたことだろう。

得難い試みの時を、挑戦の時をいただいたことだろう。

そう思いながら今私は生きている。

生きる中で学んできた、ひとりぼっちという人間の深淵をたたき込まれた自分を信じて私は前へ進む。前へと歩く。

誰でもない、私という一人の人間として生き始める出発点に立ったのだから。

人は私の人生を挫折の人生と言うかも知れぬ。たとえそうであっても、これまでの私の人生に悔いはない。私は生きて来た。

だからこそ今こうしてホンモノの“自由”をいただけたと私は思う。

何かしら大きなるモノに向かって私は深々と感謝の思いいっぱいにお礼が言いたい。

私達親子3人が無事生きて来られたことを、ここまで生きさせてもらえたことを。

そして新しい自由を獲得した私の幸運な人生に。

これまでに出会った全ての人々、全ての私達親子を見守り育てて下さった人達、ありがとうございます!本当に有難とうございました!

一枚の写真がある。

駆け落ち、結婚そして長男誠を出産、母となった21歳の私がいる。

ケンちゃんとマコと私の母と川湯温泉(北海道)に行った時の一枚の写真。(昭和46年夏)

自分が人生の何処で何をしているのか、そんなこと考える事すら知らずに、温泉の温かい砂にただ無心で遊んでいる。

赤いTシャツ、ミニスカート、クリーム色のハイソックス、21歳の若い母は少し微笑み・・それからを一人生きてゆくことになることも知らずに。

色あせた写真の中の私がまぶしく、何も知らないあどけない私がまぶしく・・。

頑張って良かったね・・生きて生きてここまで来れて良かったね・・と私が

私を抱きしめる。

「梓木ヒロ子」という一人の女の人生の始まりの写真。

写真の中の私に38年の歳月が通り過ぎ、もうすぐ60歳!

再び生まれた時の干支に還るという「還暦」の歳。

60歳の人生の漂流者、梓木ヒロ子さん!

これからどちらへ?

2010 年 1 月 5 日

「ザ・ヒロ子」30  あん子(著)

カテゴリー: ザ・ヒロ子 — 2nd_house @ 9:10 AM

そして今私は

 

 

「立教セカンドステージ大学の志願理由」 

 

                             梓木 ヒロ子

 

 やがてくるだろう「死」の時に、私は言い訳をしたくなかったー自分自身に。

やりたい事を実現し、なりたい自分になりたいと思ったから。

 私は、30年間勤めた北海道の小さな町役場を早期退職し上京した。

定年まであとわずか3年という、昨年(2007年)4月7日の事である。

 

自らの意志で自分の“逃げ道”を閉ざし、あともどりする場所もない、全てがまっさらで、全てが不安定な中に自分を置き、この東京の街で一人何を見、何を思い、どのように生きてゆくのかを見たいと思ったのだ。

 

 私のこの選択が、ただの向こう見ずな自分への賭けなのか、それとも・・・。

とにかく、私は行動した。

頼りは自分の“夢”と“ヤル気”ーそれだけだった。

 

 上京してすぐにW大学・J大学の開放講座の受講を開始した。

私の夢だった学ぶ生活の始まりである。

40年前、この同じ東京で学生だった自分には感じることのなかったまぶしい程に輝いて見える大学という建物、教室、机、イス、構内のあちらこちらに貼られている伝言板の中のチラシ、それら全てのものがピカピカ光って私には見えた。

まるで日常の俗なる世界から隔離されているかのような、みんなが「学び」に向かいながら、すがすがしく美しく生きている何かを、この今の年齢だからこそ感じられるような何かを心いっぱいにしながら学ぶ自分・・何と楽しい時間の中に私はいるのだろう、いられるのだろうーそう神様に心から感謝しながら新しい場所で今私は生きている。

 

 これまでの人生に悔はない。いろいろな事があったが一生懸命生きてきた。

普通なら、これから結婚という年齢の25歳で離婚、二人の息子と共に33年が過ぎた。

その二人の息子達も今、36歳と33歳になりそれぞれ自ら選んだ道を歩いている。

幸か不幸か、夫もいなく、両親も亡くし、一人で生きてきた私にしかできない、今しかできない選択、それが東京で学ぶ生活をする事だった。

何と贅沢な人生を歩かせていただいているのだろう。

この選択を了解してくれた二人の息子達に心から感謝する。

私をこれまで育てて下さった、支えて下さった、沢山の出会った愛する人達、そして30年間働かせて下さった職場、仕事に心から感謝する。

だからこそ私は本気で自分の全てを賭け、今を、これからを、心から大切に生きようと決心している。

 これまで、一人生きてきた自分を信じ、前向きに、自分の中に眠っている未だ見ぬ能力にチャレンジしたいと思う。

 

 人生後半になると、誰もが“守り”に入り静かに歩き終えようとすることが多いけれど、私は人生後半だからこそ何かをなそうとする意欲、攻めの姿勢が大切に思えるのだ。

親としての役目を終えた今だからこそ一人の人間としてのこれからを問われるのだと思うーどう生きたいのかを。いかに生きて行くのかを。いかに死んでゆくのかを。

 

 これまでも、充分すばらしい人生だった。

けれど私は、もっともっと自分の好奇心に忠実に自分がしたいと思うことを楽しみながら、自分とは何か、生きるとは何かを問い続け観察してゆく人生をめざしたい。

 

 先日、私は「熟年メッセージ」という大会に参加し、さまざまな「セカンドステージ」を生きている人達のメッセージを聞いた。

それぞれの方が、自分の生き方を実践してのすばらしいメッセージだったが、うまくは言えないが、「個」として存在する人間の基本をごまかそうとしているような、群れを組み楽しく老後を生きて行きましょうよー何でもかんでもボランティア活動と称して社会の役に立っているでしょうとでも言っているような、そんな印象を受けたのだが、果たしてそうだろうか・・・。

 

 社会的にも家庭的にも、その役目や責任を果たしたそれからの時こそ、ひたすら自分を磨き、自己投資をし、群れることなく一人で生きる力をより強固なものとしなくてはいけないのではないか。

生きてきたこれまでの自分を、楽な安易な方向へと導くのではなく、それぞれが選んだ人生のテーマにむかい、とにかく学び、何が本当なのかを見極める“目”と“心”を養い、まだまだ沢山の人と出会い、沢山の体験をし、自分とは、人間とは、生きるとは、死とはーそれらのことを世間一般の常識に流されることなく自分の目で、心で、力で、自分だけの「セカンドステージ」に生きることが大切だと私は思う。

 

 決して死ぬまでの消費の時間などではなく、さらに人が人らしく生きてゆくための努力、学習をしながら、より自分を高め、自分らしく満たされた生き方をしてゆく場が「セカンドステージ」と言えるのではないだろうか。

 

 つい最近、そんな思いの中で「立教セカンドステージ大学」を知りました。

講座の時だけの通学ではなく、若い学生達と同じように毎日通学し、時に学生達と同じ科目を学ぶ。

歴史と伝統の重みが大学のあちらこちらに漂う立教大学を母校とする私の長男を、常々羨ましく思っていた私でもあり、是非入学して学びたいとすぐに志願決意しました。

 この先、学んで何をするのかはわからない。

始まったばかりの私の「セカンドステージ」だが、死ぬまで学び、自分自身にチャレンジし続けてゆきたいと思う。

                         2008年1月24日

 

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