南欧料理 リロンデル
後楽園ラクーアの近くにおいしいお店みつけました。
できたばかりでまだ ネット上にはお目見えしていません。
若者が古い家を借りて自分達で改装した店内 外装はあざやかな緑の館ですが
なにしろわかりづらい場所にあってまだお客さんが少ないので ちょっと応援したい。
リロンデル 住所は本郷1-31-4ですが 地下鉄後楽園駅から歩いて5分
壱岐坂の上り口左の横道 階段を登ってすぐです。
こんど行ったときに写真をとってきます。
テリーヌやパスタなど 味は絶対後悔させないものです。
後楽園ラクーアの近くにおいしいお店みつけました。
できたばかりでまだ ネット上にはお目見えしていません。
若者が古い家を借りて自分達で改装した店内 外装はあざやかな緑の館ですが
なにしろわかりづらい場所にあってまだお客さんが少ないので ちょっと応援したい。
リロンデル 住所は本郷1-31-4ですが 地下鉄後楽園駅から歩いて5分
壱岐坂の上り口左の横道 階段を登ってすぐです。
こんど行ったときに写真をとってきます。
テリーヌやパスタなど 味は絶対後悔させないものです。
とりあえず写真をみてください。これが机の上。横の長さ3m以上で、端から端まで同じような状態。
で、しばしば土砂崩れを起こしています。
で、これが机の下。書類や本が蹴飛ばされて散乱しています。
で、こういう長い机が この部屋には3つあって
同じような状態。
で、周囲の壁面は 全部本棚で 通路には
新聞やら本やらが積み重なってひどいことになっていますが
本をうごかすとおこられます。
「俺の脳みそをぐちゃぐちゃにした!」と。
で、ここは立花隆事務所のネコビルではなくて、最近よく原稿書きに使っている別の書庫兼執筆部屋。
で、こういうへやが ほかにも数箇所にあります。
で、ここからが本文。
kさん iさん せっかくの作品を 埋没させてしまってごめんなさい。
ここだけでなくあちこちの部屋や研究室を探索します。
ただ 紙袋に 新聞やら雑誌やら 書類をつめこんで 外に持ち歩く習性があるので
発見が 非常に困難になります。
書類はすべてコピーして渡すようにしてるのですが 冊子や本になるとそうもいかなくて。
最悪な場合は 申し訳ありませんが 再送よろしくお願いいたします。
8月も もう1週間がすぎようとしている。
夏休みになったら 週3日の授業がなくなって 少しは暇になるかとおもえば 全くその気配がない。
今月も 京都のATRにロボットの取材で2日間、名古屋の戦争遺跡の大会に3日間、立教院生と新宿の取材、駒場の学生と駒場祭の準備、 がん関係の雑誌による医者との対談、朝日新聞社のがんの講演とシンポジウム、 核融合の会議、、NHKからのweb関係の取材、原稿は、月刊誌が1つ、新書関係が1つ、本の校正が1つ、立教大学院生の40名のレポート読みと採点、しぶや大学との講座うちあわせ、出版関係の来客など 連日忙しい。
いつもの月刊誌1つ・週刊誌1つの原稿が 今月はないのでかなり助かっているが それで空いたぶんまた 栃木のほうに戦争遺跡の取材に行く予定になっているので 結局 忙しさはかわらない。
これにセカンドステージ40名の自分史の原稿読みがつづく。
本職の本書きのほうの時間がほとんどない。もう10冊ぐらい、かきかけの著書が5年も10年も出番を待っている。
講演も 沢山 ご依頼をうけるが、ほとんどをお断りしている。ひとつひとつの講演やシンポジウムが 次のステップへの土台になっているので 特に地方の場合は、そこの土地に興味の対象があるとか、主催者や関係者からいろいろ教えていただけるような場合に限られてしまっている。
『きていただけるなら テーマは何でもいいです。』的なお話は お断りをせざるをえない。最近は 講演会の主催者でなく、「講演会請負会社」から 連絡が来る場合も多い。そんなときは、「主催者はこういう団体で」「聴衆はこういう方たちで」「講演テーマはこういうのでお願いします」という話からではなく、必ず『講演料はおいくらですか?」と聞かれることからはじまる。これには、「講演会は予算を消化するための年中行事ですか?」とききたくなる。
21セーキさん 心配無用です。もうびっくりするような、堂々と製本された自分史が 郵送されてきています。
セカンドの学生さんの筆力はすごいです。学部の学生と比べると、経験と知識の差というよりか、迫力の差を 毎回感じます。
「現代史の中の自分史」授業は7月10日をもって終了してしまいました。 授業開始からもう3か月が経過してしまったのです。 しかし、気持ち的にはまだ継続して欲しい・・・・ 本当に終わってしまったのかな・・・・ そんな受講生の気持ちの表れか、授業終了日までに完成をみた方は29%に止まり。 71%の方たちは「夏休み終了まで」に完成させることになりました。 実は、私も未提出者です。 残りは「まえがき」と「あとがき」ですが、見直す度に、大幅な加筆と削除の繰り返しで、なかなか完成しません。 あと何日したら完成するのでしょうか!
先生は、提出しないで終わってしまうことを心配されています。 確かに、世間では「落第して、留年だ」という声も耳に入ってきています。 提出しなければ単位は取得できません。 そこで私は声を大きくして、受講生の皆様に伝えたいことがあります。 「皆さん、自分史を必ず完成させましょう。 そして、他の授業を落とせばいいじゃないですか・・・・・・」 すみません、これは問題発言です。 無かったことにしてください。 「自分史を最優先で提出しましょう」に変更します。
授業最終日、毎週の徹夜作業から解放されたせいもあるでしょうが、それよりも、年取った受講生の成長に満足されたのでしょう。 先生は顔色が良く、笑顔も満開でした。 先生には、毎週の詳細なチェックと徹夜作業という、大変な労力をお掛けしたことに感謝します。 又、素晴らしい授業を受けることができ、大変幸せな時間を過ごさせていただいたことに感謝します。 先生、スタッフの皆様、そして受講生の皆様、貴重な時間を共有できたこと、本当にありがとうございました。
「現代史の中の自分史」。この授業は”伝説の授業”として皆の心の中に生き続けることと確信しております。 (21セーキ)
21セーキです。 今日は、11月に行う、高校「還暦同窓会」の幹事会で、山手線の田町駅へ行きました。 その帰り道の出来事です。
友人と二人で都営三田線の地下通路を歩いていると。 ロボットの声が聞こえてきました。 「シンジュク シンジュウク・・・・・・・・・・」 若い女性が急に方向を変えて、早足で通りすぎたあとに身なりのしっかりした老人が立っていました。 「シンジュク シンジュク・・・・・・・」 老人は喉の手術をしたようで、片手で持てる小さな拡声器で繰り返し音をだしていたのが、まるでロボットのような声だったのです。
「新宿へ行きたいのですか?」、 「シンジュク・・・・」、 「いっしょに行きましょ、私もちょうど新宿方面なので」そう言って歩き始めました。 老人は大股で私の真後ろをついてきました。 改札口で「切符ありますか?」、「・・・・・・・・・・」老人は何か証明書のようなものを駅員に見せて改札口を通りすぎました。
電車に乗ると一人分の席が空いていたので、案内すると、ドカッと座り、ダラッと頭を後ろにたれました。 友達は「オイオイ、大丈夫かヨ」 私「俺が聞きたいよ」 そして次の駅が近くなったとき、ガバッ、急に首を上げ、キョロキョロと周りを見ると、またダラッ。 「大丈夫みたいだね」「おどろかすなよ」・・・・・・
神保町駅で私と老人は乗り換え、次は都営新宿線。 ホームでは又、私の真後ろをサッサットついてくる。 うまい具合に電車が入ってきたので一緒に乗り込み、空いていた席に座らせる。 すると又ドカッと座り、ダラッと頭を後ろにたれる。 周りの人は又もやビックリ。
そろそろ下車駅に近づいた時、老人は立ち上がり「アリガトウ ゴザイマシタ コンナニ シンセツニ サレタコト アリマセン」。「いえいえ、ちょうど同じ方向だったので、よかったです」。「スコシ ワタシニ ツキアッテ クダサイ」。 「いえいえ、家で女房が待ってますので、失礼します」。 「ソレハ アナタノ リユウデスガ ワタシノキモチガ ソレデハ マンゾクデキマセン」、「アナタニモ リユウガ アルヨウニ ワタシニモ ユズレナイ コトガアリマス」。 「いえ、その言葉だけで十分ですから」。 「アナタト オクサンノ カンケイガ アルヨウニ ワタシト アナタニモ カンケイガ アリマス」、「チョットダケ ツキアッテ クダサイ」
電車の中でロボットのような声を出しているのですから、周りの人は皆、私たちに注目していました。 駅に着いても老人は降りようとしないのです。 しょうがなく「わかりました。少しだけですよ」と言って、一緒にホームに降り、今度は私が老人の後を無言でついていきました。 そして駅前の焼鳥屋に入り、ちょっと一杯。
「アナタハ ナンノオシゴトヲ サレテイルノデスカ?」。 「もう定年になったのですが、現在は大学に通っています」。 「ドウシテ ダイガクニ ハイルキモチニ ナッタノデスカ?」。 「仕事一筋だったので、いざ定年になったら、何をやってよいのか、迷って、もう一度大学で勉強してみたいと思ったのです」。 「ソレハ アナタノ カッテデス オクサンガ カワイソウデス」。 「いえ、女房は家にいるよりも、外出してくれることのほうが良いと言ってます」。 「アナタニハ テツガクガ アリマセン」、「テツガクノ ナイ ヒトタチバカリニ ナッタカラ セカイハ ダメニナッタノデス」、「アナタモ テツガクガ ナイカラ ダイガクニ カヨウコトハ ムダデス」。 そんなに言わなくても・・・・・・・・・でも図星です。 確かに現状に満足できず、大学に行けば何かヒントがあるのではないかと思っていたのです。 大学では確かに多くのヒントを貰い、自分でも満足していたところです。 そこに老人の歯に衣着せぬ、きつーい一発を食らったのです。 弁明もできません。 「タクサンノ ホンヲ ヨミナサイ タクサンノ ホンヲ ヨンデ ジブンノ テツガクヲ ミツケナサイ」。 その頃には、小さな焼鳥屋の中にこだまするロボットの声が、天国の父親からの忠告のように感じ始めていました。
しゃべり終わった老人は急にガクッと首を前に落とし、「あっ!」と思ったと同時に、体制を立て直し、スクッと立ち上がり「カエリマショウ」。 座って数分。まだビールは半分以上のこっています。 「キョウハ アリガトウ ゴザイマシタ ホントウニ ウレシカッタデス コンド アウキカイガアッタラ マタ イッパイ イキマショウ」、「シンセツニ シテモラッタノニ シツレイナ コトヲイッテ モウシワケナイ」 老人は喉の手術をしたため会話を機械にたよっている。 今日のように外出先で困っても、なかなか助けてもらえない。 とも言っていました。 老人は別れを告げると、サッサと大股で去って行きました。
あったばかり、それも道案内をしただけの老人。 なんだったのでしょうか。 でもあんなにハッキリと言われると、何か爽やかな感じがしてくるのが不思議です。
「自分史」で自分というものを振り返り、、不思議な出会いにより、次の課題は「自分の哲学探し」。 「自分史」が書けたのですから、「哲学探し」もできるかもしれない。 迷いが少しずつ、少しずつ、薄れていくような感じがしてきました。
初めて投稿します ニックネームは 「21セーキ 」 (セカンドステージ、1期生、せき) なんてどうでしょうか!
今回、立花先生、見聞伝、立教ねこ屋敷、こねこ、sci の皆さんに加えていただき、セカンドステージからは3名が参加し、6月28日(土)は松代の大本営跡地(地下壕)を、29日(日)は松本里山辺の地下軍事工場跡地を見学してきました。
28日は天候も良く、地下壕も整備されており、多少の観光気分と、重い空気の入り混じった、緊張感をもって見学することができました。 案内役は長野県の俊英高校郷土班の皆さん。 地下壕の入り口では手作りの歓迎ポスターを手にした、緊張した顔の男子学生たち、そして直立したままの説明を受けるという歓迎も、立花先生あってのこと。 その後のミーティングでは真剣なやり取りが繰り返され、目的意識を持ったゼミ生の皆さんの意識の高さに、負けられない・・・それでも少し頑張って発言しました。
29日は朝から強い雨、松本里山辺の地下工場跡でも雨。雨。 地下工場跡は長い間放置されて危険な状態ということで、全員が「誓約書」を書き、ヘルメットと軍手をして、2メートルにも積み重なった産業廃棄物の上を乗り越え、ロープをつたって山に踏み込み、小さな入口から地下壕へ・・・・・・・・・ 「誓約書」の内容をよく見ておくべきだった・・・・・・・・・・真っ暗な地下壕で懐中電灯の明かりをたよりに奥まですすむ。 何度もヘルメットを天井にぶつけながら、崩れ落ちそうな天井に注意し、蝙蝠とすれ違い、突貫工事を感じさせる地下壕から出た時には、立花先生のズボンは泥だらけでした。
話は変わります。 私の父は、戦争で数えきれない程の、死を見つめたそうです。 輸送船が魚雷攻撃を受け、2日の間、板きれにつかまって海上をさまよったこと。 セレベス島での戦闘。 やっと帰還し、 終戦から2年8か月後、私が誕生しています。
父も母も戦争からの解放感に満ちていたことでしょう。 そんな中で生まれた子供に、不幸な思いでなど話すはずがなく、私が父から聞いた戦争体験は、上記の内容だけでした。 母からは戦争のことを聞かされた思い出は全くありません。
そう、団塊の世代は多分、戦争を誰よりも知らない世代なのかも知れません。 思い起こせば、歴史の教科書も明治時代までしか載っていませんでした。
大本営地下壕の工事が開始されたのが1944年11月。 私の誕生たった3年5か月前です。 もし私が、その時にある程度の年齢に達していたなら、3年5か月など、本当に短い時間だったことでしょう。 その短い時間に沢山の人たちの人生が大きく変わってしまった時間としたら、なんと残酷な時間だったでしょう。
松代でも松本でも、住民は口を閉ざし続けているようです。 どんなことが起きたのか、本当のことはまだまだ分かっていません。 その時のことを調べることも大切でしょうが、戦後63年の月日は解明されないことを望んでいるのかもしれません。
こんにちは!
「現代史の中の自分史」で、TA(Teaching Assistante)として、授業のお手伝いをさせていただいている、ゆかです!
私は、立花先生の横で、受講生のみなさんの書かれた自分史を、OHPで写して大きくしたり、自分史を分類したり、
時には、
授業中に突然鳴り出す立花先生の携帯電話の電源を切ったり、なんてこともします。笑
私は教壇の上から、みなさんが授業を受けてる様子を見ることができます。
みなさんの熱心さには、いつも感動しています。
その感動に気を取られ、私は重要な?ことを忘れていました。
私がみなさんを見ることができるということは・・・
みなさんが私を見ることもできる・・・
というか、私は先生の横にいるのだから、
嫌でも目に入る・・・。
最近、受講生のみなさんとお話させていただく機会が増えてきました。
すると、こんなことをよく言われます。
「実際に話してみると、表情がとても豊かなのね。」
私は全然気付かなかったのですが、授業中の私の顔は、とてつもなく暗いらしいのです。
なぜ、暗いのか。
ここで少し「言い訳」をさせていただきます。
ブログ初投稿のくせに、いきなり言い訳です。あつかましいにもほどがありますね・・・。
この授業の受講生は、約40名いらっしゃいます。
自分史の量にすると、結構な量です。
そして、失礼なことに、私は全ての方のお名前や自分史の内容を把握できていません。
しかし、立花先生は全員分の自分史をお読みになっています。
そして、その全員分の自分史の内容が、あのすんごい脳みそに、事細かにきざみこまれています。
私は、その先生のものすんごい脳みそと、受講生のみなさんの「早く資料をみたい!!」という熱い思いと闘わなければいけません。
「あの、○○○について書いてあったの誰だっけ?」と、先生は突然言い出します。
「ぇえ!?○○○ですか!?・・・・・・」
自分史をあさりまくる私。
私、必死です。
笑顔なんて吹っ飛びます。
まだまだ、甘ちゃんな私です。
大人のできる女なら、心の中はあせっていても、表情はおだやかに保てるのでしょうか。
人間、第一印象が大切だと言いますが、
私は完全に失敗したようです。
これから少しでも挽回できるのでしょうか!?
いろんな意味で、頑張らなくては!
医者をしている友人がいる。彼に、「親切な診療をするドクター」としてマスコミで有名な人について「あの人すごいですね」というと、「えこひいきでしょう。すべての患者を ああいう風に扱えるわけないじゃない」といわれてしまった。なるほど考えてみればそうである。
そう答えてくれた彼は 地域医療に取り組んであちことかけまわっているし、私のもうひとりの医者の友人も、多いときは 1日100人近くも 診察し、在宅医療にもまわっている。彼らを見ていると あのマスコミドクターのように 一人ひとりに時間をかけて 懇切丁寧な診察をしていたら 今の半分も診察できないであろうと思われた。
しかもマスコミドクターは 日本国内はもちろん 国外にも出かけて活動している。そのような活動にけちをつけるつもりはもうとうない。どれもが誰かがやらなければならない活動だから。
たまたまそのマスコミドクターの地元に住んでいる幼な友達が、そのドクターが有名になる前に彼を評して、「とてもいい人。おばあちゃんも喜んでいる」といっていたのをおもいだして 電話してみると「地元より外に目がむいてしまっていまは地元での評判はそれほどでも」といわれた。
スポットライトの当たるそばには 必ずブラックホールが存在するような気がする。たしか有名な童話作家だったと思うが、「自分がいまこうあるのは 兄を踏み台にして生きてきたから」という家族の内部事情を赤裸々にさらけだした文章を書いていた。それを読んだとき 私は、「すごいな。ここまでわかっているんだ」と思い、さて自分は 誰を踏み台に生きているのだろうかと考えたときに 誰も思いつかなかったほどののうてんきさなのであるが。
以来 いろいろなことを見聞きするたびに 「この事がそうあるのは 何を踏み台にしているからなのだろうか」「このひとがこうあるためには 誰が犠牲になっているのかなあ」とおもうようになってきた。そうするとかなり冷静に 物事や人を判断できるように思えるのは気のせいだろうか
おはようございます。やぎさんです。
いやー残念!
「毎週どんなに中途半端でもレポートは提出するぞ」と決め、仕事の合間を見ながら自分史を書いているのですが、残念ながら今回は時間切れで途切れそう!悔しい!
今週は、火曜日だけ1日フルに空いていたので、気合を入れて書き出したのですが・・・。結局思い出しながらの手書きの紙は一杯になったのですが、レポートにまとめるまでにはいきませんでした。
でも、収穫が幾つかありました。1つは、30歳の時に英国に留学、帰国までの2、3ヶ月間南米でヒッピー旅行をした折に書いた日記が見つかったこと。
2つめは、34歳の時に「週刊将棋」新聞を創刊したのですが、週刊将棋の編集長をしているときに、テレビ東京の「早指し将棋戦」に、子ども時代から憧れだった升田元名人と一緒に出演(升田元名人が解説、私は聞き手を担当)した写真が掲載された「将棋マガジン」が見つかったこと。
いずれも、私の30代のときの貴重な”宝物”です。今回の立花先生の「自分史を書く」授業を取らなければ、これらの貴重な資料とは永遠に”再会”できなかったかもしれません。
あとは、新聞記者時代に静岡駅前のガス爆発事故の取材をまとめた「記者の目」の記事を毎日新聞の縮刷版で見つけなくては。これも、私には思い出深い大事な”宝物”なんです。
今回はレポートが提出できませんでしたが、私の大切な宝物と遭遇したことで満足しなければ。来週は2回分のレポートを提出できるよう、頑張ります。
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