立教・立花隆ゼミ「現代史の中の自分史」blog

2009 年 3 月 21 日

館山地区戦争遺跡見学

カテゴリー: 未分類 — 2nd_house @ 2:26 PM

 総勢6名の参加で320日に行われた戦争遺跡見学での私の感想を報告します。

感想は人それぞれと思いますので、これはあくまで私の感想です。

 

1.      米占領軍本体初上陸地点
 現地には看板も何もない。砂浜というよりもコンクリートで固められている。普通との違いは近くの陸地には自衛隊の施設があること。施設があって近寄れない部分もある。そもそも上陸地点が館山の海岸だったことは確かだが、さらに細かく指定しようとすると、推定が入ってくるようである。

 

2.      赤山地下壕
 常時一般公開されている。見学者が入れる部分は、天井も高く、幅も広い。地下壕の立派さ(幅、高さ、掘り具合など)で、今まで見学した、松代、松本(里山辺)、浅川、の地下壕に対比すると、松代大本営予定地下壕に似ている。軍の機密性の高いものの格納基地、戦闘指揮所、野戦病院のような医療施設として実際に使われていたと推定されているが、この大きさならそれもありうることと納得させられる。今まで見た地下壕と違って、軍事施設の隣にある地下壕という特色が出ている。
 壕の表面にはツルハシの跡がきれいに残っている。それも一部の部分ではなく、全面的に。ツルハシで地下壕を掘り進んだとすると、膨大な人手を要しただろうと推定される。しかしどのように作ったのか、期間を含めてほとんど分かっていない。

 

3.      戦闘機用掩体壕
 敵の爆撃から戦闘機を守るため、斜面に造られた格納庫。屋根部分(コンクリート)には土が盛られ、草が生えているので、上空から見つけられにくい。住宅と畑が混ざったところに、一つだけ残されている。立ち入れないように周りに紐が貼ってあるだけで、看板等は一切出ていない。

 

4.      本土決戦抵抗地点128高地。戦闘指揮所、作戦室、地下壕
 敵上陸を阻止することを目的に作られた設備。館山の海岸、基地を見下ろす、小高い山の中腹にある。遠くには三浦半島も見える。本土決戦を想定したときの最前線。

 

5.      「噫(ああ) 従軍慰安婦」の石碑。
 なぜここにこのような石碑が立っているのかは複雑になるので省略。従軍慰安婦のことが世の中に明らかになり、考えられるようになった、そのトリガーになったものである。戦争の一つの重大な側面を考えるトリガーになる場所である。

 

6.      戦争遺跡見学をどのように生かすか。
 今までの遺跡見学では、保存活動をやっている方の説明を聞きながらの見学だったが、今回は「自分たちだけで見に行く、だから事前に調べられることは調べていこう」とい言う設定だった。
 私は時間軸に注目してみた。「占領軍本土初上陸」では、ポツダム宣言発表、同受諾、降伏文書調印、占領軍上陸、という流れに注目。その中に原爆投下が入ってくる。
 館山海軍航空隊の設置から敗戦までの15年間という視点での歴史も意識される。丁度15年戦争と重なっている。このように時間軸を考えながら戦争遺跡を見学することも、学びの深化につながることだと感じた。

 

7.      戦争遺跡の説明活動をやってくださる方々の存在価値
 今回はひょんなことから、見学の途中から館山の戦争遺跡の保存活動をやられている方の説明をいただくことができるようになり(その経緯は省略)、そのような説明を受けることのありがたさを実感した。前項で示したようなことも必要だが、それだけでは学べないことは沢山ある。可能な限り、専門家に説明いただくことが大事とつくづく思う。

そのほか感じたことはたくさんありますが、とりあえずこれで終わりにします。

 

2009 年 1 月 27 日

浅川地下壕見学レジュメ

カテゴリー: 未分類 — 2nd_house @ 12:59 PM

レジュメは講師の話の内容を忠実に表現していくことが求められますが、今回はレジュメ作成者の感想を織り込みながらの記述とさせていただきます。

 

1.      現在の日常生活と隣り合わせて存在する戦争遺跡
 まったく普通の住居の裏にある地下壕入口(出入りを許してくれたこの家の方に感謝)、マイホームの地下には地下壕があり陥没事故が生じたこともある、等、まさに、今と隣り合わせに60数年前が存在している。今の平和を象徴する風景と、戦争を伝える遺跡が隣り合わせになっている。これは、松代地下壕や松本里山辺地下壕の見学のときに比べて強く受けた印象。
 60数年で日本はすっかり変わって、その上スピードの時代とか、ドッグイヤーと言われて、戦争のことは昔のことという風潮が強いが、よくよく考えてみれば、長い歴史で見れば、60年などほんの一瞬。
 セカンドの受講生の方でも、動員された経験をお持ちの方もおられる。戦争は本当にすぐ最近起こしてしまったことだったのです。
 人間は、日本人は、この60数年でどれだけ変わったのだろうか?

 

2.      東京大空襲に先立って軍需工場は爆撃を受けていた。
 私は終戦の年生まれ。自分の戦争記憶で一番古いのは、住宅が再建されていない焼け跡があちこちに残っている風景。学んだ知識として、1945年3月の東京大空襲ぐらいを知っているだけ。しかし、浅川の山の中腹から下の街並みを眺めながら、「44年11月には三鷹にあったエンジン工場が爆撃を受け、生産継続のために浅川地下壕の使用を申し出た」などの話を聞き、終戦の1年前には日本本土の守備ラインはほとんど崩壊していたことを実感。

 

3.      天井から水が滴り落ちる地下壕での精密機械の生産は無謀
 地下壕に入って、すぐに気付いたのは、ポトリぽとりと水滴が落ちてくること。湿気が高い。こんなところでエンジンの生産ができたのだろうかと疑問がわく。(私も元技術者。技術的常識は一応持っている。) 「一生懸命磨いたシリンダーも次の日には錆びていた」という証言があるという話を聞いて納得。地下壕使用を申し出たエンジン工場の技術者もこの問題にはすぐ気付いただろう。でもほかに生産を継続する方法がなかったから、続けたのだろう、と推測する。

 

4.      地下壕内の木材は戦後薪として持ち出され、坑内にはほとんど残っていない。
 焼け出された後東京では薪が貴重品だった話は親の世代から良く聴いている。食事作りには薪と鍋・釜が必需品。かまどを作れば安定して煮炊きができる。私も子供のころの経験があるので、何とかできそう。ただし食料を手に入れられるかは自信がない。私の子供はできるかは?

 

5.      「バカな事をやってしまったことを伝えるために、地下壕を残すことに意味がある」と案内の方が語っていたのが、一番印象に残りました。

 

立花先生のおかげで、現代史を考える場を頂きました。特に普段には見学できない“ハ地区”の見学ができたのも先生のおかげと思います。ありがとうございました。
 

2008 年 11 月 20 日

NAGASAKI 2

カテゴリー: 未分類 — 2nd_house @ 10:52 PM

大浦天主堂への坂下

大浦天主堂へ向かう坂道の両側には、土産物屋がたちならび、 店内に客を呼び入れる店主たちの声がひびく。

その様相は、過越祭でイエスが 神殿の外庭の両替屋の机や鳩売りの腰掛けをひっくり返し、売り買いしていた人々を追い出したという逸話をおもいださせた。

そのすぐそばに2つの場所をみつけた。

ひとつは 童話館

http://www.douwakan.co.jp/index2.html

3階の展示場で大道あやさんの絵をはじめてみた。60才のときに独学で描き始めたというが

描きたいものを、描きたいように、描きたいだけ、描きました、というような絵がすばらしくいい。

もうひとつは 横路を数メーターはいったところにある「聖コルベ神父の記念館」

コルベ神父は、日本での布教活動後ポーランドに帰国し ナチスにとらえられアウシュビッツの強制収容所で一人の死刑囚の身代わりとなって亡くなっている。

http://www.suyama-group.com/korube.html

私ひとりのために電気をつけていただいた記念室の中央には、遠藤周作が保存を訴えたという 当時の赤煉瓦の暖炉がある。

売店の方に「私の父は 活水の先生をしていて 原爆の直前に引っ越したんです」と、はなすと

「よかったですね。原爆がおちる直前に  長崎駅に入ってくる列車と 長崎駅からでていく列車が すれちがったんですよ。」と。我が家の場合は そんな数分ではなく  年単位の直前だったのだが。


NAGASAKI  1

カテゴリー: 未分類 — 2nd_house @ 12:09 AM

五島へ

今日の長崎 五島は、 寒波襲来で  「曇り・雨・雪・晴れ」という何でもありの天気予報

天気はめまぐるしく変わり 北西の暴風で ジェット船で島に渡るはずだったが出航できない。

急きょ別のコースの舟で 島に渡ることに成功。

とはいうものの2時間とびはねるジェットコースターに乗りっぱなしというひどい体験になった。

かつてのキリシタンはもっと苦しい旅で五島に渡ったと思うと 何も言えない。

友人夫婦の運転で青砂ケ浦教会・冷水教会・頭ケ島教会を 回る。

寒風ふきすさぶ頭ケ島教会の下にあるキリシタン墓地などをみながら「キリシタンはどうして耐えられたのか」 「現実のつらさが 耐える力を与えたのか」などとともだちとも話す。

                                頭ケ島のキリシタン墓地    3種類のお墓

 

本島元長崎市長は私は尊敬に値する人と思っているが、彼はキリシタンの出。

あの強さはやはり キリシタンの血が関係しているのだろうか?

いろいろな資料を読むたびに 考えられないほどの苦難をあえて受け止めて生きていったキリシタンの思いが

最近はずいぶん気になる。

 

 

 

 

2008 年 11 月 10 日

プランゲ文庫

カテゴリー: 未分類 — 2nd_house @ 9:48 AM

母校の新聞部が 廃部になっていたということを今日知った。

日本のみならず,世界でも新聞社が生きのびるのが大変な時代、ついに高校の新聞部までかと思ったが 理由はそれだけでなく1960年代の学園闘争も関係してるらしい。

その詳しい事情は まだ良く飲み込めてないが ともかく 母校では邪魔者扱いされていたわれらが新聞を70代になった創刊者たちが 高校に行ってひきとり DVD化した。 

今日の集まりで そのDVDをおみやげに貰えるという。 DVD欲しさに はじめて新聞部の同窓会に出席した。

終戦直後のガリ版刷りの、触れば破けるような新聞から60年間分の紙面を 1枚1枚スキャンして DVD化したのは想像を絶する苦労だったに違いない。なのに それを無料で配ってもらえるという。 ただただ感謝。

会が、下町の高校らしく、3本締めで終了したのもなつかしい。高校生時代も なにかというと3本締めをやっていた。

帰ってきて ネットで 母校の学園闘争がどんなものだったか調べているうちに 、「プランゲ文庫」にわが新聞部の東叡新聞1947年9月の創刊号から16号までがはいっている事を発見した。高校生の作った 謄写版の粗末な新聞がアメリカで 60年も保存されていたとは。

今年のはじめ頃から私は、たまたま長崎の原爆関係で GHQの言論統制を 調べていたので、「プランケ文庫゙」の字は ぱっと目に入り、「えっ!」とおもわずクリックした。

 

  「プランゲ文庫」は、占領下の日本で刊行された出版物の貴重なコレクションです。

 日本は占領期の最初の4年間(1945年9月~49年10月)、連合国軍総司令部(GHQ)の厳しい検閲下に置かれ、新聞・雑誌・書籍・パンフレットなどあらゆる出版物が民間検閲所(CCD)に提出されていました。

 この膨大な資料群の歴史的重要性を認めたゴードン・W・プランゲ博士(メリーランド大学教授で総司令部に勤務していた歴史学者。日米開戦のドキュメント「トラ・トラ・トラ」の著者としても知られる)の尽力により、検閲終了後資料はアメリカに送られ、メリーランド大学図書館に収蔵されました。

 のちに「プランゲ文庫」と呼ばれるようになるこのコレクションは、雑誌13,783タイトル、新聞 約16,000タイトル、図書・パンフレット 約82,000冊、地図 640枚、新聞写真3,600枚、ポスター 90枚からなっており、資料の中には占領下の検閲の実態を知ることができるものがあるばかりでなく、今では日本でも見ることのできないものも数多くあります。

 

今日の集まりで 「GHQに ○○○と○○○が許可を求めに行った」 という話を聞いて、高校生の新聞まで検閲したのかと びっくりしたばかりだった。  紙の配給を受けるために必要だったという。

クリックを続けていくと文生書院   http://www.bunsei.co.jp/ で  一部だけでもコピー 販売することもわかった。 文生書院がプランゲ文庫をだすのは 資料が送られてきていて知ってはいた。が、その時は 「凄い」「高い」と思ったものだが、まさか わが上野高校の新聞がそこに含まれているとは想像もしなかった。

このプランゲ文庫のように 点でしかなかった事項が そこここでつながって線になり、 他人事だった事項が いつのまにか自分のそばにまできていたことに 気づかされることが 最近多くなった。

 

 私は来週 久しぶりの旅行をする。1週間長崎に滞在。浦上をゆっくり歩く予定。 さらには友達の運転で 念願だった五島や外海にも行ける。

小岸昭の「隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン」 を読んだのがきっかけで「マラーノと宣教師」に興味を持ち、いろいろ調べていくうちに 「カクレキリシタンと原爆・浦上の差別」 「少年使節と日本人奴隷」「 GHQによる永井隆 の言論統制利用」など 興味の対象はどんどん拡がっている。 長崎は今の私にとっていちばん興味ある場所になっている。

 

2008 年 11 月 9 日

太宰治

カテゴリー: 未分類 — 2nd_house @ 10:35 AM

 

 こんにゃくえんまの横に 古本屋がある。

毎朝毎晩おじいさんが 本をだきかかえて店頭の台に本の出し入れをし、猫が本の間に座って信号を眺めていたりする。

信号を待つ間に「桜桃とキリスト」という本が眼に入り求めた。レジのおばあさんに「キリスト教ですか?」ときかれ「いいえ」と答える。

この本を買ったのは つい先日学生と話していて 寺山 修司だったか太宰治がまだ若者の間で人気があると聞いたからだ。

そのとき「やっぱり小説家は違うね。 評論家だったらその時代が過ぎたらすぐ忘れられてしまうもの」と答えた。大宅壮一が一世を風靡したことなど 今の若者はほとんど知らないであろう。

その 「桜桃とキリスト」の 本をよんで以外なところで 私と太宰治と接点があったのを発見しておどろいた。

彼が、塚本虎二の「聖書知識」の愛読者だったという事。

私の両親は無教会のクリスチャンで、我が家にはその「聖書知識」が積んであった。 両親の会話は常に文学とキリスト教にかぎられていて しかもそれは会話と言うよりは論争に近かったように覚えている。

94歳になる母に「太宰治と無教会派の関係知っていた?」ときくと 「塚本さんの集会では有名なことだった」といわれた。その塚本さんの集会では 男女の席が別れていて 幼い私は父親と母親の間を行ったりきたりしていたという。その同じ集会に太宰治は出席していなかったろうが。

 

 

 

 

 

 

 

 

2008 年 10 月 18 日

ねこのいびき

カテゴリー: 未分類 — 2nd_house @ 11:06 PM

夜の11時 溜まったメールに返事を書いていると グスグス グーグーっていびきがきこえるんですね。

隣の部屋の93歳の母かなと思ったら どうも違う。猫なんですね。

肘掛け椅子に丸い猫ざぶとんをしいてその上で気持ちよさげに。

 

猫って 寝言もいうですよ。知ってました?

しかも 我が家の猫は しのびの猫ではなく ばさっばさっと足音をたてて歩くんですよ。

だっこは嫌いなくせに たまにだっこされるときは おなかを上にして そっくりかえって

人の顔を見てだっこされるんです。 

 

ほんと 猫ってなごみますね。

 

 

2008 年 9 月 23 日

立花先生の講演を聴いてきました

カテゴリー: 未分類 — 2nd_house @ 4:04 PM

レジュメ男です。9月20日に立花先生の講演を聴いて来ました。

『情報の海 第1回 マストからの眺め』というシンポジウム

立花先生が基調講演。先生は授業のときと変わらない様子(雰囲気)。

PPTの作成・ブラッシュアップを当日朝の4:00までやっていたとのこと。先生のタフさには脱帽です。

講演では、時間が足らなくなり、後半のページは駆け足となったのが残念。

印象に残った内容を数センテンスで書けば以下のとおり

情報利用のロングテール化が起こっている。

 ロングテール化とはあまり売れない商品のアイテム数が増大することを言う

個性はテールのうちのどの情報を使うかで決まる

 

情報過多時代の負け組みは『入力過多でオーバーフロー。ホワイトアウト(頭が真っ白になってしまう)してしまう人』

 

モンスター情報マシーンが出てきて、金持ちが情報を活用してますますリッチになっていく可能性がある。

 

プアな情報設備でもリッチな情報生活を送るに何よりも必要なものは、『目的地設定と達成意思』

 

金が無い上に、時間も少なくなっているセカンドステージの人(私もこの一人)は、何よりもこの『目的地設定と達成意思』が大事と思いました。

後期の授業何をとるかの戦略も重要と思いました。

 

セミナーの様子は10/18日の読売朝刊に掲載されるとのことです。

また10/19のCS放送日テレG+でも放送されるとのことです。

 

2008 年 9 月 20 日

自分史の手作り製本に挑戦

カテゴリー: 未分類 — 2nd_house @ 10:34 AM

レジュメ男です。

まじめにコツコツの人生で、人をあっと驚かすようなことはしてこなかったので、人をひきつけるような自分史はなかなか書けない。中身に苦労しても進まないので、見栄えを少しでも良くしたいと、手作り製本に挑戦することにした。

 本の構造はどうなっているかを考えはじめてみると、物づくり魂が刺激されて、興味が湧いてきた。以前、持ち運びに便利なように参考書をばらばらにしたのを思い出した。インターネットで調べてみると、『本の手作り方法』が紹介されている。これを参考にしながら、自分史の手作り製本に挑戦した。

 8月末に一冊目を作り、立花先生に提出した。今回は手元に置くための2冊目の本作り。一冊目に比べて若干手順が良くなったが、残念ながら出来上がり具合は変わり無しでした。

(補足:作成経緯を写真で紹介する予定でしたが、ブログへの画像の挿入の仕方が分からなかったので、とりあえず文章のみとしました。どんなものができたのか分かりづらいですが、ご容赦下さい)

 

1) 先ずは原稿を両面印刷
 現行はA4サイズ横書きで作ってあった。本としては縦書きのほうが格好よい。しかし、文章の中に写真を埋め込んであって、WORDの指定を横から縦に変えると、写真のあるところが崩れてしまう。変更は時間がかかるので諦めた。横書きのままでも、せめてB5サイズぐらいに小さくしたいと思ったが、これも同じように簡単にはいかない。
 結局A4横書きのままで両面印刷した。100ページを超えていたので、印刷した用紙の厚さは約1cmとなった。何とか本らしい厚さは確保した。駄文でもしこしこ書きためた成果。

 

2) 印刷した用紙を揃え、前後に見返し(A3用紙を二つ折り)を重ね、ずれない様にクリップで留める。糸綴じをする為の穴を開ける。最初はキリを使ったが、なかなかキリが入っていかない。そのうち手回しドリルがあることを思い出した。ドリルだと楽に穴が開く。

 

3) 針と糸で綴じていく。ドリルでしっかりと穴が開いているので、簡単にどんどん進む。

わが人生がばらばらにならないようにしっかり縛る。

4) 表紙、背表紙、裏表紙を貼り付けて完成。
 表紙、背表紙には、本のタイトルを印刷しておく。
 本来は、一枚の紙で、表も、背も、裏もカバーできると美しい仕上がりになるが、A3サイズより、横幅が本の厚さだけ長い紙が必要になるが、そのようなサイズの紙はないし、より大きな紙をカットするのも難しそうなので、表、裏、背それぞれ別の紙で作った。その分仕上がりがダサくなってしまったが、手作りではこのあたりが限度か。出来上がった本を机の上で開いてみた。こうやって見ると本らしくなった。
 

 

5) 感想
本本体を綴じるところまでは何とかなった。一番難しいのは表紙作り。今回表紙としてはパソコンのプリンターで写真を高品質に印刷できるプロフェッショナルフォトペーパーを使用した。超光沢であり、結構硬いので紙自体の見栄えは良い。でもちょっと硬すぎて、本を閉じたり開いたりしていると、背表紙側のところがはがれてきたりする。使用した糊が良くなかった可能性もある。今回の手作りを自分で総合評価すれば、60点合格ラインに対して50点で不合格といったところか。
 いずれにしても、表紙、背表紙の作り方をもうすこし工夫すれば、結構良い製本ができそう。これから何冊か本を分解して調べるぞ!
そして、表紙をうまく作れるようになったら、『自分史手作り製本の店』でも開業するか!!!

 

2008 年 9 月 15 日

自分史を提出して

カテゴリー: 未分類 — 2nd_house @ 5:09 PM

クラスも7月に終わってしまいましたが、立花先生とスタッフのご厚意と、たぶん多少の「自分史」完成には、授業の「尺」が

短すぎた?という、嬉しいスケジュールミスで9月まで「延長戦」をありがとうございました。

天文宇宙などの神岡カンデなどシンポジウムにお忙しい中、

読んでいただけるという喜びを感じております。

出来れば、添付いたしましたDVD、「目で見る自分史」も余計なものかも知れませんが、是非、先生に見ていただきたいと

思います。

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